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子育てには四つの要素があるそうだ。
守る、守らない、認める、認めない、という四つの要素。
守り、認める、これこそが理想の子育てなのだそうだ。
僕は、年齢的にも職業的にも幅広い層の人々を知っている。子を育てている親も知っているし、育てられている子も知っている。ちょうど親離れをしようとしている時期の知り合いも多い。故に、自身の離婚のときに、離婚した夫婦の話、親に離婚された子供の話、等色んな立場の人の話を聞くことが出来たことは有意義であった。。
僕自身、一緒に住んでいる訳ではないとはいえ、子がいることもあり、子育てには無論興味がある。様々な夫婦の子育てや、様々な若者の育ってきた環境、等を興味を持って観察してきた。
色んな人たちを見てきて、本当の意味で守り、認める子育てが出来ている夫婦は案外少ない。
守り、認めない子育てに陥りがちなのだ。
考えてみれば、守ること、と、認めないこと、は実は良く似ている。
例えば、魚の骨を取ってやること、は、子供を守ってはいるが、認めていない。
この子は、魚の骨を取ることが出来ない、という判断を下しているのだ。このようなケースは多々あり、多岐にわたるだろう。
かくいう僕自身、親から守り、認められず育った。客観的に見て、僕の家の弟妹はかなり優秀だ。妹も弟も京都大学法学部を現役で合格し、妹は弁護士、弟は一流企業に勤め、おそらくは僕の年収ぐらいの月収があるだろう。その弟妹ですら、親から認められた認識は乏しいだろう。
無論、僕も41歳、今更、親に認められる認められないで自己評価が変わる訳ではないし、認められず育ったことの責任を親に問いたい訳でもない。
が、認められず育ったことが無意識下の自分の言動に現れていることは否めない事実だと思う。
認めることは子育てに限らず、音楽家等の育成に於いてもとても重要だと思う。
また、何らかの事業を行う上においても、とても重要だと思う。
好きな言葉に、山本五十六の「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。」という言葉がある。
命令し、やらせると、結果は出るかもしれない。だけど、その結果は継続しない。結果を継続させるためには、育成が必要なのだ。
特に中間管理職的な役割にいる人は、部下の出した結果で、上司に判断されるのだから、任せることには勇気がいることだろうと思う。僕たちのような世界に生きる者には想像のつかないストレスもあることだろうと思う。が、そういう状態で任せてくれたことに、応えようとするのではないだろうか??
僕は、自身のワークショップ等で最も重要に考えていることの一つに、思考させること、がある。
僕のワークショップで受講者に禁じている質問がある。それは、〜してもいいですか?という質問だ。
〜したいと思うのですが、どう思いますか?と聞いてくれ、と答える。
自分の力で考えたことに対して、是正し、僕の意見を述べる。育成の最初の段階は、思考することにある。僕は、疑問力、と呼んでいる。Why、が、思考に繋がり、Howになっていけばしめたものなのだ。
こんな言葉がある。
何かをなし得る人間は、両手で師の門を叩くことはできない。何故ならば、片手には既に自分の作品をもっているから。
かくいう僕も、17のときに作曲の先生の門を叩いた時、書きかけの交響曲をもっていったものだ。無論お粗末きわまりない作品だが。
話はそれたが、和音(僕の息子の名前。かずおと読む)を育てる上において、認めることを忘れずにいたいと思う。
子を認められる親でいたいと思う。
- 2013/01/17(木) 13:45:16|
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音程、といっても、ピッチのことではない。インターバルのことだ。
外声を司る楽器、ほぼ全ての楽器は外声を司りますが、において、最も重要なことは、外声における音程感だ。
音程には12種類ある。
完全一度から長七度まで。完全一度、短二度、長二度、短三度、長三度、完全四度、増四度、完全五度、短六度、長六度、短七度、長七度。
これらの音程を操ってルート音との適度な緊張感と弛緩を作っていくのだ。
ある程度の既成のフレーズは、音程的にも完成された美しい流れを持つものが多い。
そういったものをなぞっている分に於いては、そこまで意識しなくても、インスタントにではあるが、そこそこいい音程の演奏をすることが出来る。
ところが、コード感から外れていくような演奏や、完全無調の演奏や、インプロヴィゼーションの世界に突入したら、そこはなんでもありの世界。音程感を意識出来るかどうかがとても重要になってくる。
音程を三種類に分類してみた。
安定音程、通常音程、緊張音程だ。
安定音程 完全一度、完全四度、完全五度
通常音程 短三度、長三度、短六度、長六度
緊張音程 短二度、長二度、増四度、長短七度
まず最初に避けなければならないのは、安定音程を唐突に演奏の中で出すことだ。
つまり、ルート音に対して安定音程を軸としたフレージングは避けなければならない。
非常に平べったい音楽になってしまう。安定音程は、音楽が安定したときに意味を成す。例えば完全に終わりのシーンであるとか、音楽の中での半終止的な意味合いを持たせたいとき等。それ以外は避けた方がよい音程。
逆に、トップのメロディーを司る楽器の人の音楽のベクトルが、次安定音程を軸としたフレージングを目指しているように感じた時は、ボトムのメロディーを司っている楽器は、その音程の行き先を予測、先回りして通常音程や緊張音程を保つようなラインを構築していく。
ところが、多くのベーシストは、平気で完全8度をぶつけて来たりする。メロディーの行き着く先を予想していない、というよりも、より良い音程をトップの音と構築していく、という概念が欠落している。
僕は趣味レベルでですが、ベースを演奏することがある。その時に、つまらなさを感じる共演者は大概音程が悪い。安定音程を基軸としたメロディー構成をしているのだ。
音程感について、考えてみたこともないプレイヤーは、予想外に多い。
音程感は、フレーズを覚えることよりも遥かに重要なことなのだ。
フレーズを紡ぐというよりは、より良い、よりふさわしく即した音程を構築していく、紡いでいく、といった感覚をもつことが重要なのだ。
そして更に高いレベルのことを言うと、完全1度と完全8度は厳密に言えば違う。
僕の中で音程、というか、音世界は、張り巡らされた蜘蛛の巣のようにその中心からの距離感を持っている。それはペンタトニックとコンビネーションディミニッシュのような秩序的な音の羅列により、模様づけられている。
中心との距離は永遠に変化し続けていく。離れていくことが可能なのだ。15thというテンションは存在する。
そのような音感覚を共有して、即興的に音を紡いでいける共演者は数少ない。
- 2012/11/10(土) 13:17:48|
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ある「やりかた」のようなものを身につけてしまうと、それを幾らでも再生産出来るようになってくる。
そのときに、その身についた「やりかた」を勇気を持って捨てることがその後の進歩に大きな影響を与える。
僕のキャリアの最初の10年は無我夢中であがき続けてきただけだが、後の10年はある程度身に付いた型を捨て続ける10年だった。
誰でも、10年ぐらいやったら「そこそこ」出来るようになる。一人前になった「ような」気がする。
しかし、そこでその「そこそこ」の「型」を勇気を持って捨てるか否か、が次のステップへ登る為に重要となってくる。
「型」と「スタイル」は似て非なる物だ。
「型」を捨て続けていってもスタイルは自ずと形成される。というよりも、その人のスタイルというものは求めて得るものではない。
自然と生まれてくるものなのだ。
20歳前半のときに、とあるベーシストの先輩に、ええか中村、「チ●ポで弾け」とアドバイスを受けたことがある。
真意は、自分の中の全てをさらけ出し、手を抜かずに演奏しろ、という意味だと思う。
120%の自分の実力を出し続けること、そうすることにより、自分の「量」を増やしていけるのだ。器用な人は20代で、まだなんにも弾けていないくせに型らしきものを持っていて、そこから出ようとせず、一向に進歩しないミュージシャンは多い。そういう輩を僕は一番嫌う。
まあ僕はそんな低レベルの話がしたい訳ではない。
120%で表現することはとても大変なことだった。苦しみだったが、20代のときそれをやり通したおかげで、30代のときは120%の演奏を楽々出来るようになった。
しかし、ふと、型としてち●ぽで演奏出来るようになっただけのことであるのに気付いた。
いつまでもち●ぽで演奏することがナンセンスであることに気付いたのだ。
僕はその型を捨てた。だから、長く僕を知る人はある時期を境に僕の演奏する内容ががらっと変わったことに気付いたと思う。
とことんまで抽象的な演奏に固執した時期もあったし、全く即興をしないような演奏をする時期もあった。
他ジャンルとのコラボレーションを続けた時期もあった。音色にこだわりぬいた時期もあった。
絶えず自分に負荷をかけ続けてきた。ソロの演奏は過酷だ。誰も助けてくれない。だけど僕は10年ぐらいソロの演奏をやり続けてきた。やり方は必ず変えて。
一番ダメなのは、こうやったらリスナーは満足するだろう、と思うことだ。リスナーが求めているだろう型を再現しなければ、と思うことなのだ。
たとえ、リスナーが全く理解出来ないことであったとしても、自分は新しいやり方を披露していく、という、過酷なハードルを自らに課し続けた者だけが、到達出来る地点があるのだ。
というよりも、そういう本気をこそ求めているリスナーも数多いのだよ。
僕はあくまでそこを目指す。
僕は、永久に完成することはないのだ。
- 2012/10/13(土) 17:04:30|
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宗教的な確信犯が、自らの理念を人に押し付けるのは、それが善かれと思っているからであり、それこそが確信犯というものなのだ。
そして、僕も自分の芸の道を確信している。とはいえ僕に未熟がないわけではない。いやむしろ未熟だらけだといってもいい。
だが、自分が描く理想郷のような美学に対して確信している。
故に、僕は良いものは良い、悪いものは悪い、と自分の意見を述べる。
それが排他的に捉えられることも勿論あるだろう。実際に排他的でないとは自分でも思わない。
僕は自分の理念を、時として人に押し付けているように思われることもあるかもしれない。自らの理念を確信している所以である。
むしろ自らの進むべき芸の道に対して確信的でない者が、まあいいじゃないかと、資本主義社会との折り合いを付けながら、なんとなく人前で音楽なり美術なりを披露すること自体をこそ僕は疑う。
芸術とか表現には、場合によっては反社会的にすらならざるを得ない場合もある。
表現者のモチーフの中に、必ず現状に対する不満感が含まれる。
それは、自らの未熟に対する不満感等も含まれるだろう。
芸術家は、普通の人は気付かないような、様々な矛盾や不公平やアンバランスに対して敏感に感受する。そしてそれを芸術という形で昇華するのだ。
美しいものは美しいものだけで構成されている訳ではないのだ。むしろその反対側の要素無しには成立しないものなのだ。
僕は他人の未熟を批判することはない。
誰だって未熟だ。未熟とは相対的なものではない。自分を高めたいという要求がある限り、絶対的な意味合いで、皆未熟だ。
僕は志低き姿勢を批判するのだ。
まあいいじゃないかと信じてもない歌を歌うことを、まあいいじゃないかと小さく形作ることを、何故なのかと考え続けないことを、自らの美意識で判断しないことを、美を貫徹することを諦めてしまうことを、批判するのだ。
ただ、自称芸術家達の多くは、自分が、まあいいじゃないかと思い、信じてもいない歌を歌っていることや、小さく形作っていることや、考え続けていないことや、自分の美意識で判断していないことや、諦めてしまっていることに、気付いてさえいない。
そんな次元の者達と、同じ次元で音楽家と括られてしまうのが厭だ。
徹頭徹尾自らの美を貫徹させようとし続けられる人間、自らを高めようという姿勢で臨み続けられる人間、美に対して狂い続けられる人はごく少数だ。
だから、僕は挑み続けようとする人を、圧倒的に支持し、応援するのだ。
- 2012/05/30(水) 18:44:36|
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僕は、音楽的な価値基準で音楽家として判断され、音楽家を判断して、その音楽家を共演者として選んだり、選ばれたりして、いたい。
ところが現在の音楽シーン(他のジャンルの音楽界は解らないけど、多かれ少なかれ同じであろう)に於いては、音楽的な価値基準、以外の価値基準により、音楽家が音楽家を判断して、共演者として選んだり、選ばれたりしている事が多い。
多いというレベルではなく、殆どの音楽家は、それ以外の価値基準で共演者を選択していると言っていい。
ぼくはそのことをここに暴露する。
その価値基準とは、その人と共演することにより何らかのメリットが生じるか否か(音楽的なメリット以外の)、という価値基準である。
例えば、その共演者が音楽的にはあまり好きではないとは思いつつ、集客力があるからその共演者を選ぶ、とか、お客さんの耳障りがいいからその人を選ぶとか、見た目的に派手な演奏をするか否かとか。
リスナーが様々な価値を持って聞きにいく事は構わないと思う。
例えば、見た目的に美しい女性のヴァイオリン奏者を、音楽的な価値以外を求め聞きにいく事はあってもいいと思う。
だが、音楽家が、音楽の品質、以外のモチーフで音楽家を選択するのは、音楽家としての敗北であると、いいたい。
先日も、若く極めて才能のあるミュージシャンが、選択したミュージシャンが、あまりにも不釣り合いで疑問に思ったら、その人は素直に集客力の問題である、と答えた。そこまではっきりと素直に答える人も珍しい。
僕は過去、尊敬する音楽家に認められるような演奏家になることを努力したし、才能と技術と音楽性を認められ、共演者として選ばれてきた。
そういった「切磋琢磨」と「音楽家に対する尊敬と畏怖の念」が薄れてきているように思える。
大変危険な事に思える。
お互いに尊敬の念を持たずに、なあなあで、まあまあの、ぱっと聞き悪くない音楽をクリエイトし、それでその場をごまかすコンサートを続けていく。
めんどくさいことを言わずに、仲良しクラブのような演奏会を続けていく。
音楽家はお客に対してのサービスとして演奏するのではない。
作り上げた最高の音楽が、結果としてお客さんにサービスするのだ。主客を転倒してはならない。音楽家が最高の音楽を作り上げる事、以外に腐心してはならないのだ。それは結果として自分の首を絞める事だろう。
何故ならば、現状の音楽界は、資本主義的な価値基準により翻弄されているから。そのことに気付かなければならない。日本のジャズ界等本当に小さなマーケットだが、そんなマーケットですら、いや小さなマーケットであるからこそ翻弄されやすいのかもしれない。
音楽業界が翻弄されているのはまだよい。音楽家自身が翻弄されている事が僕には滑稽に見えてならないのだ。
無論、如何に僕でも、100%の尊敬に値する人としか共演しない訳ではない。そんな人は日本人で数人だし。が、向上心を持つ若者達と切磋琢磨していたいと思っている。
そのためのジャズワークショップであり、中津江をはじめとするMC(ミュージックキャンプ)なのだ。
先述した若者に、僕は君の選択は、君の生き方の問題だ、と答えた。
そういった選択の積み重ねは、その人の「生き様」となる。
演奏が上手いか否か、才能があるかないか、練習をしたか、そういった様々な要素は「生き様」を構成する一要素に過ぎない。
「生き様」は此れ即ち「音楽」だ。音楽そのものなのだ。
自分だけ切磋琢磨していれば、共演者の選択の妥協は関係がない、というようなものではない。
それらの選択の積み重ねが、音楽になるのだ。
- 2012/01/12(木) 14:53:15|
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care と suggestの関係。
アンサンブルは、全てケアとサジェストの関係で成り立っている。
ジャズの複雑なアンサンブルの最も最初の段階を考えてみよう。
一拍目、ベースが音を出す。二拍目、ハイハットが音を出す。
それらが連続していく。
最初のベースの音は、二拍目のハイハットの音をサジェストしていなければならない。
どんなハイハットの音が欲しいのか、どんなタイミングなのか、等。
二拍目のハイハットの音は、その一拍目のベースの音をケアしていなければならない。
そのハイハットの音のタイミングやトーンにより、前のベースの音のタイミングやトーンをベストなものとしてケア出来ている必要がある。
そしてそのハイハットの音は次に再び来るベースの音のタイミングやトーンをサジェストしていなければならない。
もっと感覚的な言葉でいうと、ベースの一拍目に対して、最も「いい感じに」ハイハットを鳴らさなければならない、ということだ。
ところが、これが案外出来ない。全国でワークショップしている中で最もレベルが高いはずの、東川口での東京のプロミュージシャン相手のワークショップでも、この最も最初の段階の受け答えでつまずくミュージシャンが多い。
何がいい感じなのか、という問題に関しては残念ながら感覚的な問題でしかない。これはこういうのがベストなんだ、というふうに言葉では残念ながら答えようがない。いい感じはいい感じであるということでしかない。
出来てない、ということを知って、自分で考えてみるしかない。僕は、出来てない、という指摘と、まぐれ当たりにうまく行ったことの指摘をすることしか、残念ながら出来ない。
そして厄介なことにこのケア~サジェスト、受け答えというものは、ハイハットとベースの関係のみならない。
全ての音は、ケア~サジェストの関係で結びついているのだ。
スネアの1ショットは、ピアノのバッキングの音とケアサジェストの関係にあるし、バスドラムの刻む四分音符は、自分の出しているシンバルレガートの音とケアサジェストの関係にある。サックスのトーンはシンガーの母音の響きとケアサジェストの関係にあるし、ベースラインの高低はピアノのメロディーと対位的にケアサジェストの関係にある。
要するに、全ての音は、お互いにケアしあい、サジェストしあっているのだ。
いいアンサンブルとは、全ての音が有機的に結合している状態である。
有機的な結合は、ケア~サジェストの関係から生まれる。
ケア~サジェストとは、要するに、他の音との意味のある結びつきを作ることにあるのだ。
同時に音がなっていても、メトロノーム的にずれていなくても、無関係な音であれば、有機的な繋がりは生まれないのだ。
有機的な結合は、まず周りの音を聞くことから始まる。
まず最初に聞くべきは、自分の音だ。自分の音は周りの音ではないのではないか?否、自分の音は周りの音だ。自分の出した音は、その空間という「周り」に放たれる最も自分に近い、周りの音なのだ。
本当の意味で自分の出している音のすべてを聞くことが出来ているのか?それを自らに問うてみるところから全ては始まります。案外聞けていないことに気づくはずです。
本当に自分の音を聞くことが出来たなら、自分の音と重なる他人の音も当然聞こえてくるはずです。
自分の音を聞く、ということは、その空間という「周り」に放たれた音を聞くということなのですから。
周りには他人の音も放たれている。そして、それらを「いい感じに」重ねあわせるところから、有機的な結合は生まれる。
いい感じに重ねあわせる、ということが、ケア~サジェスト、ということなのです。
フレーズの組み合わせをアンサンブルと勘違いしているジャズミュージシャンは数多い。
確かにフレーズの組み合わせはケアサジェストの関係で成り立ってはいる。
しかし、それはアンサンブルを構成する全ての要素の1/100にも満たない事柄なのだ。
- 2011/11/24(木) 16:16:33|
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即興、即興演奏についての僕の考え
即興は誰にでも出来る。クラシックのピアニストだろうが、バレリーナだろうが、絵描きだろうが誰にでも出来る。
極端な話、うちのおかんにもおとんにもできる。いや、おとんは音楽家だった・・。
即興が出来ないと思っている人がいるとすれば、それは思い込みだ。そんな難しいこと出来るはずがないと。
僕に言わせれば、モーツアルトの譜面を演奏する事の方がよほど難しい。
だが、クオリティの高い即興をするのは難しいことだ。
即興に於けるアンサンブルで例を示そう。
これまでいろんな人と即興によるセッションをした。ジャンルも問わず様々な人々と。
今一な即興をする人は、相手の出しているモチーフに対する追随のシーンが多い。
いい即興家は、相手の出してきたモチーフに対しての発展や応用を提案するシーンが多い。
追随するのがダメではない。追随とはいわば、ニュートラルな状態。車の運転でいえば、アイドリングしている状態。
状態には大きくわけて3種類あると思う。
追随の状態、離反の状態、そして、応用の状態。
相手が仮に「A」という提案をしたとする。すると、それに対して「A」と返答するのみであるならば、その場は発展していかない。相手がAで来るならば、では僕はBでいこう、とか、ほう、Aで来たか、それならば僕はA’にしてみようと、少しでもいいから変化技を出していけば、話はどんどん広がっていくし、立体的になる。
いいアンサンブルには、応用の状態が多い。それどころか僕は意図的に追随の状態を避ける事も多々ある。
追随とは、ユニゾンの状態、とも言い換えることが出来る。
とある優れた即興演奏家は、ダンス等とコラボレーションの即興をするとき、意図的にダンスを見ないようにして演奏する、といっていた。それもある意味正解だと思う。極端だが。
それは即興を追随の状態を避ける、といったレベルの話ではなく、「繋がる」ということの本当の意味を問う、といった意味合いの方が大きいだろうけど。
兎も角、ユニゾンは少なければ少ない程良い。
ユニゾンは、作り込まれた、大編成の作品に置いてモチーフに厚みを持たせたりするときに使う手法だ。例えばオーケストラで、トロンボーンをオクターブでユニゾンで鳴らすと単体で鳴らすよりも厚みが生じる、とか。
作り込まれた作品で会ったとしても小編成の作品であれば、ユニゾンのシーンは少なくなればなるほど良いと、僕は考えている。
この話は完全即興の話を主眼として書かれていますが、実はそれ以外の事柄、例えばジャズのトリオのアンサンブル等に於いても同じことが言えると思う。
相手の発言(モチーフ)に対して、新しい提案をする、そして、その提案に対してまた新しい提案を繰り返していく。そういうアンサンブルが、有機的で、美しいアンサンブルとなる。
また、ソロで即興をやるときも同じことだ。自分の出したモチーフを、繰り返すのみでは平坦な即興となる。そのモチーフに対して、自分の中で新たな提案を考えていく。
精神的即興感に関しての考えは、過去のブログにありますのでご一読ください。
http://nakamuranokangae.blog55.fc2.com/blog-entry-31.html
- 2011/11/24(木) 14:12:11|
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数年前、片岡球子展を見て衝撃を受け、絵が描きたいと思った。
ある画家がライブに遊びにきてくれた。その想いを伝えたら、持っている色鉛筆と画用紙を貸してくれて、描きなよ、といってくれた。
いざ描こうとしたのだが、全く描けない。そこにあるコップを描こうとしたが、どう描いていいのか解らなかった。
僕はコップの形を線で描こうとしたのだが、コップの表面と空間の間にある区別は、実は線ではない。
そのことに気付いて、どう描いていいのか解らなくなったのだ。
西洋画は面的で、日本画は線的である。
そのことをずっと不思議に思っていた。
色んな美術家にそのことを質問したのだが、納得出来る答えを返してくれる人はいなかった。
ある日、宮崎の陣軍陽さんという書家の大家の人の家に遊びにいった時、陣さんの作品をいくつか見せてもらっていた。中に陣さんが描いた絵、水墨画があった。その水墨画は線により描かれていた。
長年の謎を問うてみた。
陣さんには過去にも様々な問いを投げかけて、ヒントとなる言葉をいくつか頂いたことがある。
例えば、多くの画家は晩年になるとどんどんと大胆さがましてくる。それは何故なんだろうか?という問いに対する答えも腑に落ちた。又それは別の機会に。
陣さんは、それは西洋人と日本人のものの味方の違いに由来するのだ、と仰った。
西洋人は、物を中身から見ようとするのだが、日本人は、物の形からみようとする、物の見方の違いです。と仰った。
その言葉から、自分なりに様々な事柄を思考してみた。
以下に未熟ながら、自分の考えを述べたいと思う。
フランス料理とイタリア料理の違い。
フランス料理は言わずと知れた世界一の技法を誇る料理。対してイタリア料理は素材の味を生かしたお気楽な料理、と、一般的にはいわれている。イタリア料理の本にも伊仏の料理の違いについて、そう書かれてある。
例えば、フランス料理の華、コンソメスープは、コンプリートスープという意味だそうだ。完成されたスープ、なのだ。
各種のブイヨンを使い、牛のすね肉をミンチにした物を数日間煮込んでいき、卵白で灰汁を凝着させ、徹底的に透明に作り上げられたそれは、一流の料理人の、完全なるコントロール下に置かれた、完璧な味。
イタリア料理は、パスタを茹でている鍋の中に、煮えるのが遅そうな野菜を順番に入れていき、仕上がりはまあ大体こんな感じ、ジャガイモはちょっと固くてもまあいいじゃないか、ゆであがったパスタと野菜をボールでたっぷりのオリーブ油で和え、皿に盛りつけ、パルメザンをすりおろす。たったこれだけの料理。
僕はイタリア料理は適当な料理なのだと思っていたが、それは実は違うということを知った。
徳島のスガッチーというイタリア料理を食べた時、あまりの旨さに衝撃を受けた。
僕もアマチュアではあるが、まあまあ本格的に料理をするので、そのトマトソースのパスタをどうやって作っているのか解る。
トマトとタマネギと塩とこしょう、それだけしか使っていないはずのそのトマトソースの旨さ。
素材の味を引き出すのがイタリア料理だといわれているが、そうではないのだ。素材の味を限定しないのがイタリア料理なのだ。
どこまで美味しいのか解らない料理、それがイタリア料理なのだ。
フランス料理は、コンプリートした料理、いわば、面を完璧に隙なく埋め込む作る料理であることに対し、イタリア料理は美味しさを解放する料理なのだ。
完璧なものを創るフランス料理と、作られたものを完璧とするイタリア料理の違いと考えている。
ジャズミュージックは即興演奏だといわれている。が、僕には多くの西洋のジャズミュージックが即興演奏に聞こえない。
というより僕の考える即興と、多くの西洋のジャズミュージシャンのやる即興は、違う。
西洋的な即興の概念と、東洋的な即興の概念が違うのだ。
西洋のそれは、完成した絵を、一寸の間違いもなく一筆書きで描き切る、というような即興。対し、日本の即興は、書く物は決まっているが、垂れた墨の模様やかすれ等、計算されていないそれも含めて完成とする、といった、「書」的即興。
コンプリートしたもの、と、コンプリートするもの、の違い。
西洋的な概念は、完成していてそこに入り込む余地のないような概念、面を塗り込んで、そしてそこに他の色は入り込めない。
東洋的な概念は、すかすかな概念、どうとでもなるような概念、水墨画に色はないが、どうぞご自由に色を想像してください、といった概念。
アメリカの中東政策について。
先日見た映画の中で、アメリカ人の男が、京都のお寺で読経中のお坊さんに話かけるシーンがあった。このシーンに象徴されると思う。
日本人がアメリカの教会で、聖書を読んでいる牧師に対して話かけるだろうか?おそらく、多くの日本人は、聖書を読み終わるまで待ってから話かけると思う。
おそらく、アメリカをはじめ、西洋の多くの国の感覚として、中東の人達がイスラム教に対する想いを、頭では解っているだろうが、皮膚感覚として理解出来ていないように思う。
何故自分たちの正義を信じて疑わないのか?価値観がコンプリーとしているからだ。
他の価値観が入り込む余地がないのだ。
多くの日本人は、イスラム教の教義は全く知らなくても、どうやらそれがとても彼らにとって大事であり、侵してはならないものなんだろうな、ということを皮膚感覚で捉えることが出来るだろう。
皮膚感覚としてそれがない西洋人は、頭で解っていても行動することが出来ない。
逆に日本人はすかすかなので、何でも受け入れてしまう。それが主体性の無さとして国際社会で非難を浴びることもある。
しかしその資質のおかげで、アメリカは日本に対しての占領政策を大成功させたのだ。日本人は、受け入れてしまえるからだ。
お寺に東照宮の飾り立てがある、そういう資質なのだ。
日本人のジャズが、何かちょっと変な理由。
多くの日本人ジャズミュージシャンは、面的にリズムやトーンを捉えることが出来ていない。
ジャズのリズムは、一拍と一拍の間の空間を有機的なもので埋めなければ成立しないリズムだとぼくは考えている。つまり、リズムという「面」を「隙間なく塗り込んでいる」「西洋画」のようなリズム。対し、日本の音楽は形はあるけれども、中身はすかすかな点的なリズム。
ジャズという「西洋画」を演奏する為には、油絵の具で面を塗り込む方法を身につけなければならない。
ただ、それを感覚として身につけることが出来たら、日本の「書」的な即興感というものは大変魅力的に生かすことが出来ると思う。
例えば、藤田嗣治の西洋画には線が多く用いられているが、面的に塗り込まれてもいる。
逆にゴッホ等は東洋的な概念を持ち込んでいる。事実ゴッホも線で絵を描くことが多い。
ジャズミュージシャンもそう思う。例えば、ウェインショーターや、キースジャレット等、トップのプレイヤーの即興には、東洋的な「書」的な概念も見て取ることが出来る。
要するに、一流のアーティストのなかには、コンプリートした感覚も、コンプリートさせる感覚も、両方あるということだ。
以上徒然と書いてみた。
この考えは、まだコンプリートしていません。
- 2011/05/03(火) 16:54:41|
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楽器の音色について
以前にピアノの音色について、というトピックで書きましたが、今回はそれに加筆する意味、トーンクオリティーの話をしたいと思う。
トーンクオリティーとは、音量、音色、タッチ、その他様々なファクターで構成されている、要するにその人の「音」の品質のことだ。
例えば、まじめにジャズに取り組んでいるシンガーならば英語の発音は意識するだろう。また、ドラマーならパラディドルをスムーズに出来るようになる等、メカニカル、フィジカルな事柄に対しての意識はあるだろう。スイングするためのリズムの構造を研究したりもしているだろう。
ピアノなら、美しいハーモニーの積み上げ方に対して意識の高い人はいるだろう。複雑に込み入ったポリリズムのフレージングを研究したり、ビバップの奏法を研究したりは誰もがする。
だが、音色のクオリティーの向上を目指しているプレイヤーは大変少ない。
音色は音楽の顔なのだ。音が悪ければどうにもならない。
絵画に例えると、その絵のモチーフや哲学が理解出来ないとしても、絵の具の奇麗さ、色の奇麗さはど等素人にでも判断出来る。それと同じことは無論音楽にもいえる。
[トーンクオリティー向上について]の続きを読む
- 2011/01/24(月) 20:55:16|
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音感には二種類ある。
絶対音感という、どんな状況でも全ての音の音名が理解できる感覚と、相対音感という、これがドですよ、という基準を与えられた状態でならば、どの音であろうと理解できる感覚に分類出来る。
たまに、自分は微妙に絶対音感がある、という人がいますが、それは絶対音感とはいえません。
絶対音感とは、色が黄色であるとか、茶色であるとか赤であるとか、どんな人にでもある(色盲の人は別でしょうけど)絶対的な感覚と同じで、外しようがない感覚です。
また、音の羅列を捉える概念にも二つある、音名としてとらえる固定ド、音名読みという概念と、階名としてとらえる移動ド、階名読みという概念である。
前者は、調が例えばト長調ならば、スケールはソラシドレミファ♯ソで、後者はいかなる調であれドレミファソラシドです。
ちなみに僕は絶対音感で、固定ドと移動ド両方可能です。
絶対音感者は、左脳の言語中枢で音楽をとらえているようです。
ピアノのドをおすと、「ド」という音を発音しているようにしか聞こえないのです。故に、僕の知る絶対音感所持者の多くに、歌詞が耳に入ってこない、という人は多い。音を言語として捉えているから、それ以外の言語が耳に入ってこないのです。
僕は職業柄、英語の歌の伴奏をすることが多い。必至で英語の歌詞を聞こうと努力して、今では歌詞が耳に入るようになりましたが、未だに日本語の歌の伴奏をしても、歌詞が全く耳に入らない。恥ずかしながらキムサクの曲ですら歌詞は曖昧にしか覚えていない。
絶対音感という、優れた能力にも多くの欠点があるその一つです。
中でも絶対音感の最大の欠点は、ある曲を違う調で演奏するのが困難であることです。
例えば、何も言わずに調を変えて演奏してみます。ベーシストは対応を迫られる。その調がなんであるのか理解するのに時間がかかる相対音感者、ではあるが、調が分かれば後はすらすらと演奏できる。
絶対音感の人は、調が何であるかは即座に理解できるが、その調に対応するのは容易なことではないのだ。
相対音感者は、どの曲でもどの調でも主音をドとして理解しているので、転調が容易なのだ。
だが、絶対音の人は、音名で覚えているので、音名で読み替えなければならないのだ。
例えば、森の熊さんは、ソファ♯ソミ、ミレ♯ミド と、相対音感の人は覚えている。
だが、絶対音感の人は、調をCで覚えているならば、上記した通りだが、もしこの曲をFで覚えていたらドシドラ、ラソ♯ラファ、と覚えているのだ。
つまり、キーを変える度に覚え直さなければならないのだ。
極端なはなし、一つの曲をどの調でも演奏しなければならないとすれば、絶対音の人は、12曲覚えなければならないことになる。
これはめんどくさい。
以上のように、絶対音感や固定ドは一見大変不便なもののように思える。が、そんなことはないのです。
どころか、圧倒的に相対音や移動ドに勝る要素もあるのです。
それは、無調や、頻繁な転調を繰り返す楽曲に対しては、固定ドが圧倒的に有利だからです。
移動ド、つまり階名読みは、安定した調性があって始めて成立する概念であり、調性という基準が無くなれば、そこにあるのは絶対的な基準となる音名のみになるからです。
また、John ColtraneのGiantStepsも、ファ♯レシソシ♭ですが、強引に階名読みすればソソミミソという、意味不明な音の羅列となる。
また、絶対音感は、トーナリティーという基準のないところでの、即興演奏において圧倒的な強みを発揮する。
ホワイトアウトした雪山でも、脳内コンパスに従って道を過たず進むことが出来る動物のようなものです。
道に迷いようがない。
絶対音の人は聞いただけでその音がなんであるか理解できるが、相対音の人は、何か音を出してみてその音との音程の距離でその音がなんであるか判別し、そして次の音を出す、という作業が必要となる。
完全に2手遅れて音を出すしかなくなるのだ。
しかも、これは最も優秀な相対音感を所持している人で、の話である。
また、通常のジャズの演奏においても、調性から外れていくようなシーンは数多くある。そういう場面に対応する能力は圧倒的に絶対音の方が優れている。
と、移動ド固定ドのそれぞれのメリットデメリット、絶対音感相対音感のメリットデメリットを列挙してきたのだが、実際のところ、音をどうとらえているか?は100人いたら100通りの捉え方があると思う。
絶対音感とて、人それぞれ全く違うと思う。
ヘルツが2変わっただけで困るという絶対音感者も少なくない。
自分の音感的な能力は変えようがない。
相対音感の人が、成人して幾ら訓練しても、幼少の頃の訓練により身に付いている絶対音感のような音感は絶対に身に付かない。
また、絶対音が邪魔だ、と思っても、そのオプションを取り外すことは不可能である。
だが、移動ドや固定ドの概念であれば、訓練で身につけることが出来る。
僕自身は、和声学を学ぶ上で、ディグリーネーム(主音を1、属音を5等と数字で音を分類する和声の体系)で解釈することが出来るようになったので、自然に移動ドも可能となった。
そして、移動ドとか固定ドとか、そんなものは音の捉え方の方便に過ぎない。
音というものには元々名前などないのだ。
タララ~ムフフ~デュビデュビ、なんでもいい。そこにあるのは歌、メロディーなのだ。
楽器を使って、自由自在に歌を歌うことが出来れば、それで良いのだ。
そこに到る通過手段として、音名やら階名の概念があるに過ぎない。
音を歌として捉えよう。
- 2010/11/10(水) 15:26:17|
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素直という資質は、しばしばいい意味で使われる。
そして、頑固という資質は、悪い意味で使われることが多い。
無論、資質それ自体に善し悪しはないという大原則は、この場合にも当てはまる。
素直とは、受動的な意味合いにおいてのみ好ましい資質となり、頑固は能動的な資質としては、よい資質となり得る。
というより、何かを成そうとした時には、受動的に素直で、能動的に頑固でないと難しいのではないか、と僕は考える。
例えば、人に意見された時に、その意見を受けつけられるかどうか?は、受動的な素直力による。
人からの様々なアドバイスを受け、そして自分はこうして行こう、という目標を定めた時に必要なのは、能動的な頑固力だ。
何があってもそれを貫き通す力の源。
そして、人から受け取ったアドバイスは、ただ素直に受け止めればそれでいい訳ではない。
自分の力で考え、そしてその内容を吟味し、取捨選択し、判断していかなければならない。
それは、戦術的には思考力の範疇だが、戦略的には頑固力の範疇だ。
最近、20代の若者、それも20代前半の若者と接する機会が多くなった。
そういう人たちの中には、受動的にも能動的にも素直な人を見かける場合が多い。
特に男の子に多い。
良く言えば、素直なんだけど、自分に軸がないなあ、という感想を持つ。
これからの生き方で変わるだろうが、アーティストとしての自我に欠けるような印象をどうしても持ってしまう。
では、受動的に頑固で、能動的に素直な人とはどういう人なのか?
人からの意見は受け入れられない。
そして、その言動は、自分の中にあるべき考えの軸に欠け、相手に対する忖度が欠落している。
素直な行動とは、思いつきだけの行動であり、周りにいろんな傷を与えてしまったりする場合もある。
無論、そういったことは演奏上でもよくあることだ。
トランぺッターの山田友和君は、受動的に素直で能動的に頑固な典型的な人だ。
彼に何かアドバイスをしたら、それは全く何の抵抗もなく、彼の中に収まっていく感がある。
受動的に素直でも、頑固に自分の道を歩む力がない人に対しては脆弱さを感じ、アドバイスしにくい部分もある。
素直力は何も人からのアドバイスを受け入れるのみの資質ではない。自らが積極的に何かを得ようとする時にもその資質は発揮される。
彼は去年の中津江ミュージックキャンプに参加した人間の1人だが、参加した人間関係で最も沢山の物を得た人の1人だろう。
僕とも共演する機会が生まれ、そこから人間関係も広がった。伊藤大輔や東かおるとも親交を深め、和田いづみ達九州の人間からも呼ばれることとなった。
それは、ひとえに彼の素直力に起因している、と僕は思う。
固陋(ころう)、という言葉がある。
受動的にも能動的にも頑固になってしまった状態。
そうはならないように自らを戒めていきたいものだ。
- 2010/05/08(土) 20:04:46|
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30代は一人前一年生になった世代だった。
様々な謎が解決し、解らなかったことがどんどん解りだした。
20代に「間違い」でしかなかったことは、「違い」となり、一応は個性となった。
そして、自らの生き方が定まった世代だった。
さて、40代はどうなのだろう??
僕は、摩耗が始まる世代なのではないか、と思う。
30代で一応は定まったその生き方を、継続出来るかどうかが問われだす世代なのだろう。
おそらく、その覚悟を挫く様々な要素があらわれてくるのだろう。
それは、想像よりも高いハードルとなってあらわれてくるのではないかな。
実際、今でも僕の周りの出来事を見ても、色んなトラップが仕掛けられていて、物事が思うように進まないように思えることは数多くある。
だが、物事とは、思うように進むものではないんだ、ということを知っていれば、解決に向けてポジティブに考えることが出来ると思う。
思い通りにならないとき、妥協したり、諦めたりするのではなく、調和する感性が問われるのではないかな。
それは20代、30代には問われなかった感性だろう。
戦術的な観点ではなく、戦略的な観点で見て、物事や生き方を推進させていく必要性が増えるだろう。
局部的にうまく行かなかった事柄を、受け入れて、全体像として完結させていく。
そうやって、40代の自分の覚悟を貫くことが出来て、それを完結出来たとすれば、それは一生続けることが出来るのではないかな。
そして、その先は自らの芸道の熟成なのだろう。
そう想像している。
- 2010/05/08(土) 19:54:41|
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最近松任谷由実のベストアルバムを友達に借りて聞いてみた。
コードの構築の緻密さと丁寧さに驚く。
海へ、という曲のさびのコード。
KeyはB(Hdur)で、コード進行が|E△7|B/E♭|D♭m7 G♭7|B|
という、当たり前のコード進行。
が、よく内声の動きを観察してみると、一小節目がこんな動き
|G♭/E D♭m/E Caug/E D♭m/E |
2小節目もこれにシーケンスする動き。
3小節目にも一拍ずつ内声のG G♯ A B♭という動きを作ることにより、微妙なコードの浮遊感を作っている。
まず、現代のお粗末なポップスではあり得ないコードの動き。
ポップスがアートかどうかと言われれば疑問だが、クラフトではあると思う。
そういう意味で、とても丁寧に作られた作品だと思う。
昔のものは何故かいいものが多い。
何故かと考えてみる。
[工業製品、工芸品について少し考えてみた]の続きを読む
- 2010/03/20(土) 16:08:42|
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芸術品と工芸品の間には何の区別も存在しない。
芸術品だろうが工芸品だろうがそこにあるのはそれらが、本物か、偽物か、限りなく本物の香りがする偽物か、だけである。
最も一般からありがたがられるのは、限りなく本物の香りのする偽物、だ。
そして偽物には偽物の用途がある。
だが、本物に触れる為には、触れる側にもそれなりの覚悟を要求される。
例えば、本物の茶碗を手に入れる為には目の球が飛び出る程の金銭が必要となる。
ゆえに、最もポピュラリティーを得られないものは、本物だ
ゆえに、本物を作り、極める道は、茨の道である
本物を作る為には、それを一生かけて追い求める覚悟が必要である。
むろんそれは並大抵のことではない。
一度は覚悟を決めた作家が、その覚悟を全うすることが出来ずに終わることもよくある。
その覚悟を、一生かけて全うすることが出来た者だけが、後世にその名と作品を残すことが出来るのだ。
ところが偽物、及び本物の香りがする偽物に従事する作家は、後世に名を残すことよりも、現世での自分の生活の福祉の充実のほうに興味がある反面、本物の作家は、自らの生活の福祉はおろか、後世に名を残すことすら興味の範疇から外れているものなのだ。
本物は、本物を創作することと、それに対する努力にしか興味がないものである。
稀に、本物を作る人でポピュラリティーを得、現世での生活向上に成功する人がいる。
それは、その人が本物だからではない。
それは、ただの偶然の結果に過ぎない。
何かを創作する、ということは、そんなものなのだ。
ところで、創作された物に触れる側としては、その三種類の区別をどうつけたらよいのかが解りづらい。
特に、本物と、限りなく本物の香りのする偽物は、区別が付きづらい。
過去の物は歴史の淘汰を経ているので、本物しか残っていない確立は高いが、現世においてはそれらは混沌と存在するからだ。
ゆえに、その作品が、歴史の淘汰を経て未来に生き残る物なのかどうか、という観点で触れてみる習慣をつけることだ。
そうすれば、自ずと眼力も育とう、というものだ。
モーツァルトの時代には、モーツァルト以外にも、たくさんの、本物によく似た宮廷音楽家や、ただの楽隊も、数多く存在したのだから。
無論、僕は、本物を一生かけて追求する。
共に歩む者、募集中。
- 2009/11/22(日) 00:03:55|
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負け癖を付けるな
生きていると大小様々な困難が行く手を遮る時がある。
その困難に向き合い、逃げ出さずに乗り越えようとするか否か、か、が人としての成長に大きく関わって来る。
逃げ出すということは、その困難に負ける、ということだ。
一度の「負け」はほんの小さな負けに過ぎないかもしれない。
ただ、負けを積み重ねていくと、負け癖がついて来る。
負け方にも色々ある。なかったことにしたり、先送りにし続けたり、人のせいにしたり、判断を他人に委ねたり、他人にたよったり。
つまり、勝ち癖を付ける為には、困難を正面から見据え、克服する努力をし、自分で責任を取り、人に頼らずに、自分の力で判断すればいい。
そうして克ち得たものは、負けて他人から得たものと全く価値が異なって来る。
ピアニストの大友君と少しメールのやりとりをしていて、彼の音楽上の悩みの話になったことがある。
ぼくは回答に至らしめるような、ちょっとしたヒントを返信した。
彼は返信で、ありがとう、その先は自分で考えます、と書いてきた。
彼は勝ち癖のついている人間なのだ。
大事な判断を、他人に委ねてはいけないことを、知っている人間なのだ。
あるシンガーとライブをした時の話。
その曲にしては彼女の出したテンポは速すぎるように感じたが、そのテンポでイントロを出した。
楽曲にはやはりその曲にふさわしいテンポというものが、ある程度は存在する。若いシンガーは、そこを意識せず、なんとなくテンポを出すことがよくある。
が、一流の人達は、あえて、全く違うテンポでやってみて自分だけのその曲、という世界を作り出すのだ。
ゆえに僕は、その人の工夫と信じてそのテンポでイントロを出したのだ。
案の定、ステージで歌えなくなった彼女は、ステージ上で、曲の途中で、こんなんじゃ歌えない、といって拗ねて歌うのをやめたのだ。
自らの未熟を僕のせいにして、自らのミスを聞いているお客さんに甘えたのだ。
負け癖のついている人は、極端な場合、このような行動に出る。
どんなに偉大な先生に師事しようが、どんな上等な楽器を購入しようが、どんなにいい音楽体験をしようが、己に克たなければ意味がないのだ。
逆に、独学でも、エレピしかなくても、ステレオはカセットデッキしかなくても(又古い言い回しだが)己に克つことが出来れば道は開けるのだ。
指導者や、伴奏者も悪いのだ。
ぼくは、それらの立場を取ることもある。今後は中津江MCや、各地で起こっていくであろう、僕の立てる新たな塔、により、その機会はどんどん増えてくることだろう。http://nakamuranokangae.blog55.fc2.com/blog-entry-45.html
野村克也氏の指導の方針として、無視、賞賛、叱咤、の三段階がある、という。
心に負けた気持を持ってワークショップに来る人に対して、僕は述べる言葉をもたない。
その人が、己に向き合う覚悟を持ったとき、僕は褒める。
そして、その人が、それに向けて進み始めたとき、僕は叱咤し、激励するのだ。
負けている人間に、手取り足取り教えてあげることは、その人のためにならないばかりか、負け癖を増長させてしまうのみだ。
伊藤大輔が、中津江MCで参加シンガーに、僕とのDUOでの練習の時にこういった。
中村真を、車だと思って乗りこなしてみなよ、と。
僕は、まあまあ性能のいい車なのだ。400kmぐらいは出るし、フルブレーキングをかけてもハンドルがぶれることなく制動出来る。足回りも悪くないので峠も楽しく走れる。
だけど、ドアを開けてキーを差し込み、エンジンをかけ、アクセルを踏み、ブレーキをかけ、ハンドルを操作しないと動かせないのだ。
世の伴奏者の多くは、本当に多くは、ドアを開けてあげキーを差し込んであげ、エンジンをかけてあげ、アクセルを踏んであげ、ブレーキをかけてあげ、いかにもその人が運転しているかのように演出する。
これではシンガーは育たない。
しかし、こういう伴奏者が、伴奏の上手い人、といわれているのだ。
僕自身の話を少しします。
僕はずっと自分はピアノはとてつもなくへたくそなんだ、と思ってました。
ゆえに技術的に向上する練習をずっとやっていました。
ある日、通常の練習をしていて、自らの指にある、変な癖に気付きました。
それは、ビルでいうなら、一階にある構造上の欠陥、のようなものでした。
僕は気付きました。僕はへたくそなんじゃなくて、一階に欠陥を抱えたまま、100階までビルを建ててしまったんだ、ということに。
それから、僕は練習方法を変えました。
101階の工事に取りかかるのではなく、バイエルの赤本の10番までのような練習から始めました。
一階の修繕です。
国語でいうなら、平仮名の書き順からやり直すようなものです。
そうすることによって、100階まで立てたビルは少しずつ安定して来ました。
自分で、自分に気付き、一見遠回りに見える努力を、そこから逃げずにやり直す。
僕が、今まで一度も負けなかった訳ではない。困難から逃げ出したこともある。己を甘やかしたことも何度もある。
不満足な演奏を、共演者のせいにしたくなることもある。
だけど、そこで、もし僕が世界一のピアニストなら、共演者が誰であれ、満足のいく演奏をすることが出来るだろうと考えるのだ。
そう考えると、自ずと自らの進むべき道も見えて来る。
負けてては、その道を進むことは出来ないのだ。
志を高く持っているならば、負けている暇はないのだ。
それだけのことだ。
- 2009/11/17(火) 16:44:09|
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最近、たまたまアマチュアのセッションに伺ったり、アマチュアの人達との交流もあり、気になったことがある。
皆同じスタンダードコードブックを持っているのだ。
そういえば僕のレッスン生も皆、同じコードブックを持っている。
アマチュアで楽しむ分には構わないかもしれないが、プロを目指すものは、ああいったスタンダードブックは一刻も早く捨てたほうがいい。
その理由はたくさんある。
単純に、コードの誤りが多いこと。
枯れ葉レベルの曲でさえ、一般的な我々のセッションで使われているコードと食い違う。
かなりひいき目に見て、コードの正解率がほぼ30%ぐらい。一曲の中に間違いが一つもない曲の率が、です。
誤りではないけどベストではない、という曲を入れたら更に-10%です。
コードの誤りが一番少ないのはバークリーの教科書のリアルブックですがそれでも80%ぐらいの正解率でしかない。
[スタンダードブックをすぐに捨てよう]の続きを読む
- 2009/10/16(金) 15:11:12|
- B
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もともと大阪から上京する時に始めた自転車の旅、それを音楽に結びつけた自転車ツアー、2006年から続けて来たそれは本当に多くのものを僕にもたらしました。
都会で、漠然とライブハウスを行き来するだけの音楽家としてのあり方に疑問を抱いていた僕は、ほぼ直感的にチャリツアーに飛び出した。
とんだピエロなのではないかな?という思いも頭をよぎらないわけではなかったけど、旅を終えてみてそれは本当に色んなものを僕にもたらしてくれました。
テントを担いで、地べたで寝て、自分で最低限の調理器具で食事をこさえながら全国に轍を刻んできたことから感動を得ながら、感動を与えていく。そして、それは人との密接な関係を作っていくことになりました。
チャリツアー、それは友達を作る旅。
しかし、漠然とした物足りなさを感じ始めてもいました。
中津江ミュージックキャンプを終え、その答えが見つかりました。
チャリツアーは、色んな意味で丁寧なツアーではあったけど、所詮僕は通り過ぎていく旅人でしかない。そのことに物足りなさを感じていたのです。
もっと深く、ひとと感動を共有したい。
僕にとって、水平の旅はもう終わった。これからは、チャリツアーで得た友人達と、垂直的に、もっと掘り下げ、もっと積み上げていく。
そして、地域の人達や、音楽家やほかのアーティストとも感動を共有し、そして、共に学び、もっと深い精神的な繋がりや価値を求める活動をしたいのだ、と。
中津江で育んだ感動は、確実に人の心に共鳴し、それは波紋を広げています。
人は交わり、新たな繋がりを生む。
例えば僕は、みんなに伊藤大輔を紹介し、みんなを伊藤大輔に紹介した。大輔は、歌やワークショップを通じてみんなに感動をあたえ、それに共鳴し、波紋を広げる。
そして、伊藤大輔自身が学び、みんなから得た感動を、そして共鳴し、波紋は広がっていく。
事実参加者同士が僕のコントロールの範疇外で、自由な動きを見せている。
MCに参加した中津江在住のNくんは、東京までのチャリ旅に飛び出した。
音楽家が与えられるものは一方向の感動だけでは決してないと僕は思っている。
そしてそれを実践し、証明していく。
ピアノを弾くだけが僕の与えられる感動ではないのだ。
僕は、自転車で全国を線で結びました。
これからは、全国に塔を立てます。
中津江MCは続くし、共鳴する友達がいるなら、僕は全国どこへでも飛んでいきます。そこで、共に塔を立てよう。
どんな塔になるか?それはやってみなければ解らない。
それは、直感的に旅に飛び出したあの時と同じ。
二次元から三次元の旅へ、僕の旅は形を変えたのです。
- 2009/09/07(月) 12:41:05|
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知る、ということ、そしてものを見る、ということ
脳の中に楽譜を用意して演奏に望む音楽家がいる。
まずそれを取っ払うところから始めるほうがいい。
楽譜に書かれているものは音楽そのものではない。
音楽に関する、ほんの一部の情報が書かれているに過ぎない。
クラシックの楽譜ですら、そこに書かれていることは全てではない。
ぼくは共演者、特にベーシストに曲目を伝えずに演奏を始めることがよくある。
よく知っている曲であるはずなのに演奏出来ないベーシストがたまにいる。
その人達は、曲目を伝えなければ、脳の中の譜面集から譜面を取り出せないのだ。
そういう人達に、この曲知ってるか?というと、覚えてません、と答えが返ってくることがある。
僕は、知ってるのか知らないのか、を訊ねているのだ。
曲を知る、ということはどういうことなのか???
曲のコード進行を覚えることなのか???メロディーを覚えることなのか???
歌詞を覚えることなのか??
勿論それら全て、曲を知る、ことの一つだ。
だが、本当にそれで知ったことになるのか??
コード進行など、楽曲の本質ではなく、表面の一部分であり、場合によっては音楽を奏でる上において何の意味も持たない場合も数多い。
少なくとも、僕のトリオに、コードを覚えているだけでは参加することは出来ない。
キースジャレットのトリオにおいては、メンバーみんな「知っている」曲を演奏しているのだが、ゲーリーピーコックとキースジャレットは「しばしば」全く違うコードを弾いている。
知るということと、覚える、ということは少し違うのだ。
たとえ話を一つ。
[知るということ、見るということ]の続きを読む
- 2009/09/01(火) 15:16:02|
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自宅レッスンの料金を改定いたします。
レッスン料金を改めます。
成人7000円→6000円
五回レッスン回数券30000円→25000円
学生5000円→4000円
ついでに受講生募集。
受講希望者はメールください。
以下にレッスン詳細を記しています。
音楽やピアノを教えています。
主にジャズピアノを教えています。
コードの押さえ方、アドリブの取り方、理論、ピアノの技術的な練習方法、また、僕はベースを弾きますので、アンサンブルするレッスンになります。
ピアニスト以外にも音楽を教えます。(ボーカル、サックス、ベース等)
主に僕がピアノを弾いてのアンサンブルの授業になります。
勿論、その楽器の固有の技術について教えることは出来ませんので、初心者は不可です。既にアンサンブル可能なレベルの人に限ります。
ジャズはアンサンブルの経験が演奏技術の向上にもっとも繋がるものですから、非常に意義のあるものになるでしょう。
又、他の楽器のプレイヤーにピアノやピアノを使った理論の授業を教えることも致します。
レッスン形態については話し合って決めたいと思います。
一度だけレッスンしてもらいたい、とりあえず一度のレッスンで様子をみたい、というのでも構いません。
レッスン対象者ですが、ジャズ初心者は可ですが、楽器初心者は不可です。
ジャズや即興演奏は、楽器初心者には無理です。まず楽器を修得する事から始めなければなりません。
楽器に関しては、どうしてもというのであれば教えますが、僕より遥かに上手に楽器初心者を教える先生は回りにいくらでもおられることと思います。
あと、強いて条件といえば、僕のピアノを生で、もしくはCD等で聞いたことがあることです。
プロ思考でない方も歓迎です、がジャズを聞いて感銘を受けた方に限ります。 時々、ジャズが何たるか知らないのに教えてもらいたがる人がいます。クラシック以外のことがしたいのでしょうけど、そういう漠然とした目的意識の人を教えることはぼくには困難です。
レッスン場所は、基本的にさいたま市の北浦和の僕の自宅で教えたいと思います。
- 2009/08/26(水) 12:45:57|
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直感的に物事を捉えることは非常に大事である。アーティストに必要なのは、頭脳よりも何よりも直感力である。
とかく知識を得ると、人間は直感ではなく、脳みそで物事を捉えようとする。
私事でありますが、最近水彩画をはじめました。
とたんに美術鑑賞が直感的でなくなる。技法に目がいくようになるのです。
なまじの知識と経験は直感の邪魔になる。
では直感とは何ぞや?
将棋の世界の話をしましょう。むろん私はへぼ将棋なので、将棋の神髄を身を以て体験したことはございませんので、又聞きや文献によるお話です。
全てのボードゲームは、必勝法を探す旅、だといっても過言ではありません。
数学的に言えば、結論の存在するものなのだそうです。
オセロ等は必勝法が存在するそうです。多分、後手が必勝だったと思います。囲碁も先手有利です。だから、五目半のハンデを付けて打ちます。
ところが将棋に関しては未だ先手後手有利の結論すら出ていません。人間はおろか、力任せに計算するコンピューターですら、わからないのです。
将棋界最強の男、羽生善治が20代の頃、彼は他の棋士よりほんの少しだけ深いところまで読むことが出来ました。その読みの深さは本当に髪の毛一本分ぐらいのものだったそうです。
そして、その髪の毛一本の読みの深さで将棋界七冠王を達成しました。現在も4つのタイトルを保持している(はず)
ただ、脳みそは20代で衰えて来る。その後は経験による勘で指す要素も増えて来るそうです。
ひいては、読まない強さ、つまり直感力ですね。
しかしそれは、今までの膨大な読みの蓄積や、経験の集約からくる、直感、なのです。
適当ではない。
アーティストには3種類のタイプがある。
かしこ※に見えるかしこ、アホに見えるかしこ、アホに見えるアホ。
かしこに見えるアホはあんまり見たことないなあ、たまにお見かけしますが。
アホは、直感力で音楽を捉える。そして、絶えず新鮮にその場の音楽の局面を見ることが出来る。
ものを見ることにおいても、創作する局面においても、アホでいることは実は最高なのだ。
頭を使っているようではまだまだ。
ただ、究極の脳みそ0%星人になるには、大天才の人以外は膨大な思考と経験の積み重ねの先にあるのだ。
何やらと何やらは紙一重、まさにその通りなんだ。
勿論、僕はまだまだ脳みそを使っている。アホに見えるかしこの段階。
さあ皆さん、究極の脳みそ0%を目指そうではないか。
※かしことは、関西弁でいうところの賢者のこと。アホは関西以外では比較的きつい表現に捉えられがちがだ、バカよりはだいぶソフトな感覚で記しています。
- 2009/07/27(月) 13:26:53|
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謙虚であるということ。
謙虚であるということと、へりくだるということは全く違う。
謙虚であるということは、ありのままの自分を受け入れる、見つめる、ということである。
ぼくは世界一のピアニストになりたいと思っている。
こういう事をいうと、謙虚ではないと思う人が多い。
ぼくは、そう思わない人のほうが謙虚ではないと思っている。
少なくともホロヴィツもハンクジョーンズもぼくも、CDの値段はほぼ同じだ。
それを買って聞いてくれる人に対して、ぼくがその人達と同じ志を持っていないとすれば、それを買ってくれた人に対して謙虚である、といえるのか?
[謙虚であるということ]の続きを読む
- 2009/07/05(日) 13:47:00|
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ピアノの音色について
ピアノという楽器は、科学的にいうと猫が弾いてもぼくが弾いてもホロヴィッツが弾いても同じ音がなるはずなのに、全く違う音になるという不思議な楽器であります。
ピアノの音色について少しお話しいたしましょう。
全ての楽器の中で、音色を良くする為の明確なトレーニング方法がない楽器はピアノだけだといっても過言ではありません。
ピアノの音色はイメージで決まります。後は技術的な総合力。
イメージを持つ事には勿論メソッドはありません。音楽を聴いて感動したり、日常の様々な事柄を感受するしか方法はない。
ぼくの場合は自転車で旅をしたり山登りする事もそれかもしれない。
でも、具体的にピアノを弾く時に少し意識のチャンネルを変えてみると、音色のイメージを持つことの手助けになるかもしれません。
ピアノの音をならす為には鍵盤を押さなければなりません。
ですから、ピアニストは鍵盤に意識がある場合が多いです。
が、鍵盤は操作する為のボタンに過ぎず、実際にはピアノはハンマーが弦を叩く事によって発音しているのです。
ですから、ピアニストはまず意識を鍵盤からハンマーに切り替える事が肝心です。
ピアノは唯一楽器の発音を、自分の体で直接行う事が出来ない楽器なのです。内部奏法をすれば別ですが。
さて、ハンマーが打弦する事をイメージ出来たら、次は弦を共鳴させる事をイメージしてみましょう。
ピアノは、弦楽器である、という言い方が出来るかもしれません。
特にファッツィオーリは、弦楽器である事を思わせてくれる楽器ですね。
ハンマーが弦を叩く事から弦を響かせるというイメージを持つ。
そこまでいくようになるとどんどんイメージは膨らんでくるはずです。
ハンマーの打弦のさせ方を変えてみたり、ソフトペダルを踏んでみる事によってそれは可能になります。
ピアノからは弦の音以外の様々な音がしています。ダンパーが外れる音、ダンパーが戻る音、共鳴弦の響いている音、倍音の響き、フレームの響き、また、共鳴板の木に響く音、そこまで感じ取りながら、ピアノを演奏してみると、どんどん楽しさが増して来る。
ピアノは、響かせる楽器なのです。
ぼくのピアノを生で聞いた人ならば、ぼくが、弾いた音の残響にまで意識を持ち、責任を持って演奏している事を感じ取れる事でしょう。
響きにイメージを持つと、まずペダリングが変わる。
ピアニストに限らず、全ての減衰音の楽器奏者は、今ひとつ楽器を響かせる事をイメージ出来ずにいます。
楽器を響かせるイメージを持たないと、音楽は点のままです。
楽器を響かせる事が出来て、はじめて、音は点ではなく線であり、立体になっていくのです。
- 2009/06/08(月) 19:14:15|
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音楽家としてプロになるためには才能は不可欠だ。
発明とは99%の努力と1%のインスピレーションだ、というエジソンの言葉がある。
努力を推奨するこの言葉は、言い換えれば、1%のインスピレーションが湧かない人に発明は無理だということでもある。
同様に、才能の全くない人には音楽は出来ない。
ところが、才能があればそれで音楽が出来るのか、というとそうでもない。
たまに、20代前半で突出した才能を開花させる人がいる。
そういう人たちは、凡人が9年かからないと出来ない事を、たった一年で出来てしまう。
だけど、どんな天才だろうと凡人だろうと、等しく10年時間をかけないと出来ない事も存在する。
[音楽が音楽になる為には]の続きを読む
- 2009/04/21(火) 12:47:00|
- D
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先輩や先生から、様々なアドバイスを受ける事があると思います。
アドバイスをしてくれる人は、大抵の場合その人に対して好意を持って言ってくれていますが、アドバイザーの力量や、意図によっては、アドバイスが功を奏さないばかりか、有害にすらなる場合もあります。
基本的に、人のアドバイスは半分に聞いたらよろしい。
僕は、大学一年生の時に、はじめてセッションにいったジャズ喫茶のマスターから受けたアドバイスが的外れであった事から、そのことを学びました。
必ずしも人が正しい事を言ってくれるとは限らない。また、正しい事であったとしても、そのことがその人に取って正しいかどうかはわからないのです。
最終的に、自分の感性以外の事を表現する事は無理だから。
では、アドバイスをどう受ければいいのか、ということを考えてみましょう。
アドバイスには大きくわけて二つあると、僕には思います。
戦略的アドバイスと、戦術的アドバイスです。
戦略とは、どういう目的で戦うか、で、戦術は、いかにして戦うか、です。
つまり、戦争でいうと、第二次大戦の目的を定めた東条英機は戦略家で、ミッドウェーで采配した山本五十六は戦術家です。
[アドバイスの受け方]の続きを読む
- 2009/03/02(月) 16:39:41|
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演奏する時のメンタリティーを整える。これはほんまに難しい事だ。
集中力は、緊張していては絶対に出ない。
リラックスする事は非常に大事なことだ。
どうやってリラックスするか、その方法を各自探らなくてはならない。
お客さんにのまれてはいけない。共演者にものまれてはいけない。
どうすればいいのか?それは各自探方法を探らなければならない。
最初の一音は肝心。
その一音が、音楽として動き出した時から始まるのだ。
自分が出す音に対して、勿論、方向性を考えながら音を放っていくのだが、だが出た音がひとりでに予期せぬ方向に動いていく事もある。その音の動きに忠実に音楽を作っていく。これはつまり、響きを吟味するということでもある。
この、予期せぬ動きに対する反応が即興感に繋がる。
ホロヴィッツが即興的に聞こえるのはそういう理由。
[ぼくが演奏中にしている作業の解説]の続きを読む
- 2009/01/08(木) 20:24:24|
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すべての問題は、音符のレガートに関わってる。
リズムを刻む際、その音とその次の音、つまりベースでいうと四分音符が、レガートしているイメージを持つ事が、ジャズを演奏する上で、最も大事な事だ。
レガートとはどういう事かというと、音と音が繋がっていく事だ。
アーティキュレーション記号では、スラーで表記される。
レガートすることは、スウィングとも密接に関わっている。
ジャズにおけるレガートという言葉の意味は、少しだけクラシックのそれと違う。
クラシックでは、メロディーがレガートするのだが、ジャズでは、リズムがレガートする、という言い方をする。(これは極論です。勿論、ジャズでもメロディーのレガートはあるが、問題をリズムに限定したほうが、わかりやすいと思われるから、ここではそういうことにする。)
リズムの点、一つ一つがレガートしている状態を作り出すのだ。
どうすれば、レガート出来るのかは実は説明する事は難しい。しかし打音から発生するその後の空間をどれだけ意識出来るか、にかかっている部分は大きい。
点と点を繋ぐのではなく、点から発生する、響きを繋いでいくのだ。
若い音楽家達の多くはは、音の響きを意識出来ていない。殆どのリズム楽器は、減衰楽器であるから、ポイントにしか意識がいかないのだ。
故に、ピアノでいうならば、ペダルの踏み方を勘違いしているひとは多い。
ペダルを、打音を繋げる為には極力使ってはいけない。音は可能な限り指で繋ぐものだ。
ペダルの本来の用途は、響きを繋ぐ為のものなのだ。
ベースやドラムのレガートを技術的に説明するのはぼくには難しいが、響きに意識を持つべきである事は、容易に理解出来る。
ドラムはハイハット、ベースドラム、スティックで叩く場合はシンバル、ブラシの場合はスネアという、3種類の楽器で4ビートのリズムを構築する。
この強弱と、軽重だけで、大概の事は表現出来るのだ。
ハイハットのタッチ感、バスドラムの距離、ブラシの深さだけで、大抵の音楽の緊張感を彩る事が出来る。
つまり、レガートしているだけで音楽に参加する事が出来る。ということは、音楽が混沌とした時にステイ出来るということだ。そして、ステイする事によって冷静に状況を判断出来るということだ。故に、すべての問題はレガートに関わってくるのだ。
ジャズの場合は、4ビートといわれる四分音符がそのレガートの基本として考えても差し支えないだろう。
必ずしもスイングは、強いビート感から生まれるとは限らない。
黒人の、すごいプレイヤー達のグルーブは確かに強力だが、それを模倣しなければスイング出来ない訳ではない。
それよりも、もっとさりげない、四分音符のレガートから生み出されるリズムの連なりが、スイングを学ぶ上において重要であると僕は思っている。
- 2008/12/18(木) 12:39:51|
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若いミュージシャン、特にドラマーや管楽器奏者に多いのだが、音楽の総体の中での流れがギザギザで、あまりにも唐突で雑い演奏が多い。
何故そうなるかというと、多くの場合、彼らは自身の演奏の中で「ジャズ名場面集」の切り貼りをしているのだ。
野球で例えるなら、珍プレー好プレーばかりを見ているようなものだ。
珍プレーや好ブレーだけで一試合は作れない。
内野ゴロ、外野フライ、バント、ヒットエンドラン等の地味な作業の積み重ねの中に、たまにあるホームランや、奪三振が見物なのだ。
ジャズのアルバム一枚聞いても、殆どは地味な作業の連続で、一曲の中のここっ、というポイントにのみ、そういう華やかなシーンがあるのだが、そういう華やかな、耳につくシーンのみを抽出し、羅列しているのが、そういう連中のジャズなのだ。そこには音楽の総体としての美しさはない。
マイルスデイビスバンドフォロワーのヨーロッパの三流バンドのライブCDを聞いたことがある。本物と同じようなシーンは数多く存在するが、整頓の度合いがまるっきり違うのだ。
一つのシーンの中の音の情報が多すぎるのだ。
ドラムはホームラン打って、ベースはヘッドスライディングして、ラッパはホームスチールしている。
そういう人たちと一緒に演奏すると、僕は音を出すことが出来なくなる。ただでさえ混沌としている状態に、更に音を増やせば、混沌の度合いが増すことが明らかだからだ。
弾かない、という選択肢が、まだしもましな選択肢となるような演奏になることが多い。
ソロのとき、頻繁に落ちてくるドラマーからのド派手な「爆撃」を避けながら、ギザギザを補正しつつ、少しずつ丁寧に音楽を進めていかなければならなくなる。
刹那的なかっこいいフレーズを奏でることを考えるのではなく、その音を出した時、そのシーンに与えるベクトルはどうなのか?そしてその音がトータルの音楽の緊張感の中でどういう役割を担うのか、結果、流れはどう移ろっていくのか?ということを考えながら、一つ一つ丁寧に作っていくことをまず心がけなければならないのだ。
そして、その中にあるここ、というポイントが見えた時にド派手なことをやればいいのだ。それは本物の名シーンになる。
こういう話はいささか抽象的すぎると思われ、理解していただけないかもしれないので、具体的なことを少し記してみよう。
安易にユニゾンになるような展開を求めない、終止のフレーズを安易に出さない、相づちを簡単に打たない、音が何オクターブも跳躍すること、又は何オクターブもの音域を行き来するようなことを安易にはしない、フレーズに頼らず、タッチ感や音量の調節によって音楽に参加する術を覚える、自分の出した音と違う方向に音楽が進んだとしたら、ということを絶えず想定しながら音を出す、自分の弾いた音をある程度は覚えておく、又弾く前に頭で音を鳴らしてから弾く、等が大事だ。
つまり、安易にやるな、ということになる。
音数は、なるべく少ないほうがいいのだが、達人は、まず音楽の骨格を理解した上で、たくさんの肉をつけるているから音が煩雑にならないのだ。
達人の演奏には音数が多い場合もままある。が、三流のそれとは、大きく違うのだ。
ぼくはそれを、聞いて理解出来るし、頭でもわかっているが、実際に即興の中で、ジャズに特有のスウィングの流れを損なわず、トータリティーを意識することは、まだ出来ていない。
- 2008/10/25(土) 00:18:35|
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僕がテレビを見ない理由は、見る価値があると思う番組が少ないということもあるが、何よりもぼくはCMを見るのが嫌なのだ。
文明が進歩し、世の中は便利になったという。
確かに携帯電話は普及し、車も一家に一台、パソコンも個人が一台づつ所有する世の中となった。
昔に比べてずいぶん便利になったものだ。
それでも世の中に溢れる様々な物物物、この中に本当に必要なものは一体どれぐらいあるのだ??
僕には、不必要な消費を煽る、世の中のコマーシャリズムとそのからくりが滑稽に思えてならない。
[僕がテレビを見ない理由~エコとは]の続きを読む
- 2008/10/03(金) 23:47:16|
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フットワークの軽さ。私の数少ない長所である。
僕は、大阪での仕事の「ついで」に北海道に登山にいく人間ですが、それが、いかなる形あれ、損になったことは一度もない。
普通に考えても、得るものは出不精の人間と比べて多いに決まっている。
アーティストとして、何かを感受することに対して、どん欲であることはとても大事なことだ。
それが人によっては山登りであったり、自転車の旅であったり、動物園にいくことであったり、本を読むことであったり、美味しいものを食べにいくことであったり、場合によってはパチンコを打つことである人もいるだろう。勿論、練習に対しても。
それが何であってもよい。それに対してどん欲でいよう。
また、フットワークの軽さは、なにも外向きなものにだけ限定されるものではない。
内向きなことに対してのフットワークの軽さも大事だ。
例えば、人との関わり合いに対してのフットワークの軽さ。
音楽を作るということは、人とのかかわり合いを無視しては成り立たないのだから。
人と向き合うことは大事だ。自分の意見を述べることに対して億劫でいてはいけない。
対人関係をめんどくさがっていては、得るものは減る一方だ。
ぼくは軽快に、誰とでも友達になる。軽薄といってもいいかもしれないぐらい。
全然知らない人の紹介の、全然知らない人の家に泊まったりすることは、僕にとって何の苦でもないどころか、楽しみでしかない。
そうやって、自分が一緒に音楽をする人を、音楽をする場所を、確保していくのだ。
そうして、自分にとっての日本がどんどん狭くなってきた。
それとともに、自分の音楽も広がり、友達も増え、環境はどんどん自分にとって望ましいものに変わっていった。
人生が行き詰まっている人に例外無く共通していることは、出不精であることだ。
何かを成し得ている人の口癖が、「面倒くさい」という言葉でないことだけは、確かなことだろう。
その言葉を使わないようにするところからはじめてみるといい。
少なくとも、決まりきった日常からの脱却により、気持がリフレッシュする。
これだけでも僕は演奏が良くなるのだ。
ぼくの軽いフットワークはそのうち海外にも及ぶかもしれない。
今はヨーロッパを旅したくて仕方ない。勿論チャリでね。
- 2008/09/25(木) 12:28:02|
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自尊心なく、拗ねの感情を持って歌っている若手シンガーをよく見る。
確かに、若手シンガーを取り巻く環境は厳しい。
だけど、それに負けててはいけない。
僕が共演したいと思う若手シンガーは、それに打ち克って来た人、打ち克とうとしている人だけ。
歌が上手いかどうかは大した問題ではない。
僕と共演したいと思ってくれる若手シンガーも何人かはいる。
中には、社交辞令での発言であろうが、お手柔らかにお願いします、という発言をする人がいる。
僕には自尊心が欠落した人の発言にしか思えない。
何を手加減するのか???
僕は、19の何にも弾けない頃から、共演者に謝ったことは一度もない。
どんなにどえらい失敗をしても。
それが、自分の精神を汚すことを直感していたから。
どうせ私の歌なんて、という気持を持って、ステージに上がらないでほしい。
又逆に、反動的なエネルギーを持ってステージに上がる人のもよしたほうがいい。
反骨心を持って歌うのは構わない。だけど、反動が人を感動させることは無い。
ステージに立つ前のメンタルを確保することは、本当に、本当に難しいことなんだ。
僕自身15年以上プロとして活動しているが、未だに出来てるといえない。
ましてや、生身でステージに上がるシンガーの、メンタルを確保することの難しさは、もしかしたら想像以上かもしれない。
だけど、ステージの上によけいな物を持ち込んでることは、生身故に、一発でばれちゃう。少なくとも僕は一瞬で見抜く。
人間やから、色んな負の感情を持ってしまう。
せやけど、それに打ち克たなあかん。
当たり前のことだが、歌は練習すれば誰でも上手くなる。だから、そんなことは大した問題ではない。英語も同じ。練習すれば上手くなる。
自尊心の欠如と、拗ねの感情が、精神に変な癖をつけてしまう前に、それに打ち克とう。
誰しも、グレイトシンガーになる資格はあるのだ。
- 2008/08/15(金) 11:21:34|
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