中村の考え

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音楽を体験するという事。youtube等について。音楽をするという事。

今の二十代ぐらいの若いミュージシャンには上手いプレイヤーがたくさんいる。
とりあえず、非のつけどころがないプレイヤーがたくさんいる。
ところが、そういうプレイヤーの多くがぼくには無個性に感じられる。そのプレイヤーの「顔」が見えてこない。
演奏が終わった後に印象が残らない。

そのことを某サックス奏者と話したのだが、その人も同様の感想を持っていた。そして彼は、現在はyoutubeや配信により音楽を簡単に手に入れることが出来ることが原因ではないか?と言った。
ぼくはそれをきっかけに色々と考えてみた。その考えの話を以下に記す。

音楽を聴く、ということは、音楽体験の中で最も重要な要素の一つであると思う。

自分自身を振り返ってみよう。ぼくは、1972年生まれの44歳だが、中学2年生ぐらいの頃親にCDプレイヤーを購入してもらい、色々なCDを、当時はCDも値段が高く、そうそう買えるものではなったこともあり、比喩ではあるが、一つのCDを擦り切れるほど聞いたものだ。
バルトーク、ストラヴィンスキー、ラヴェル、ドビュッシー、等、近現代音楽に傾倒していたぼくは、何度も何度も繰り返し、春の祭典や、弦チェレ、クープランの墓などを、暗唱できるほどに聞きこんだものだ。

高校に入り、親が持っていたウォークマンの初号機を、親父がオープンリールからカセットにダビングした、ビルエバンスの「Bill Evans Album」等を、100回以上、いや、500回くらい聞いたかもしれない。回転数がおかしかったので、ぼくは大学に入った時に、初めてセッションをしたときに、酒とバラの日々を半音高く覚えていて、F#で出て笑われたものだ。
そういった、「擦り切れるほど」音楽を聴きこむことは、「音楽体験」足り得るだろう。

ところが、現在においては、簡単に音楽を手にすることが出来る。情報を得る方法も飛躍的に簡単になっている。
酒とバラの日々を「調べて」いろんなアーティストのものを「聞き比べる」ことも容易になった。
とても便利な世の中である。
多くの人々が勘違いしていることの一つに、「情報の蓄積こそが思考である」ということがある。

情報の蓄積は、思考ではない。情報は、思考するための道具である。
また、勉強は思考ではない。勉強は、考える力を養うトレーニングだ。勉強すること、が考えること、ではない。
音楽を、たくさん集積することは、情報を蓄積することと似ている。というか、同じだ。
情報をたくさん蓄積したところで、思考しないと意味がない。


では現在の環境は、音楽を「思考」する上において望ましい状況ではないのだろうか??
ぼくはそうは思わない。

重要なことは、環境ではない。環境をいかに自分にとって望ましい状況とするか、だ。
僕はCDの世代だが、その前はLPの時代であり、さらにその前はSPの時代である。音楽が何らかのソフトにより記録できるようになってたかが100年程度。それ以前は音楽に触れる為には、生の演奏を聴きに行く以外の手段がなかった。
音楽を学ぶという上において、その環境は不利であるといえる。だが、そのことによりモーツァルトやベートーベンが、現代の作曲家に比べて劣る、などということはあり得ない。
つまり人は、現代に生きることしかできない。そして、現代の環境から逃れることはできない。いや、逃れるためには相当な努力が必要となるだろう。その話はさておこう。

人は、与えられた環境を、自分にとって望ましい状況として、受け止める必要がある。
youtube等で音楽情報を得られやすい状況を、自分にとって望ましい環境として、受け止める必要があるのだ。

言いかえれば、youtube等で音楽情報を得られやすい状況であることと、若い音楽家たちが音楽を体験出来ていないことは、別問題なのだ。
更に言うと、情報を収集しやすい現在は、実は音楽のリアル体験をしずらい環境にあるといえるが、しかしそれは、若い音楽家たちが環境に負けているだけなのだ。

若いミュージシャンの演奏のうまさとは、蓄積された音楽の「かけら」を手先で器用に組み合わせられたもの、にすぎない。
故に僕の印象には残らない。
若いミュージシャンは、蓄積された情報を、上手く「学習」しているのだ。
重ねて言うが、勉強は、思考ではない。
どんなにたくさん音楽を聞いて、練習して、上手くなってもそれは音楽ではない。
それは、音楽を始めるスタート地点に立ったに過ぎない。そのことをまず知る必要がある。


では音楽をするという事はどういう事なのか?
確信した自分自身にしかない価値を持つことだ。自分が確信している音を奏でることだ。
人から借りてきたものではない、自分自身の魂から溢れ出てくる、本当の音を奏でることだ。
練習や学習、技術を身につけることは、それを獲得するための方便に過ぎない。
僕が今述べていることを一体何のことだろう?そう思った人は、音楽をする資格がない人だと思えばいい。

確信している価値というもの、それは完成することではない。僕は何一つ完成していない。むしろ完成したと思った時点で終わりだ。
自分が音を出すとき、その音に対して、陶酔しきる、狂い切ること。それが確信しているという事だと思うのだ。





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  1. 2016/06/29(水) 17:59:38|
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  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:3
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コメント

Re:

うん。お前は負けている。まちがいない。
  1. 2016/09/20(火) 08:04:17 |
  2. URL |
  3. 中村 #0ecWsDRU
  4. [ 編集]

これを書いた時点で負けている。
それを読む俺も負け組だ。
  1. 2016/09/19(月) 20:04:17 |
  2. URL |
  3. #-
  4. [ 編集]

音楽

うーーーん・・・・・。もうちょっとだなあ。
  1. 2016/07/03(日) 00:57:32 |
  2. URL |
  3. isseiigarashi #LpY9HsIU
  4. [ 編集]

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