中村の考え

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贈与主義(精神主義)の発展とそのために我々が何をするべきなのか

人類の精神性は、進歩する。それは好むと好まざるとに関わらず、もろもろの悪意の存在とは無関係に、進歩せざるを得ない。
http://makoppo081.blog52.fc2.com/blog-entry-1153.html
http://makoppo081.blog52.fc2.com/blog-entry-1154.html
この僕の考え方に関しては、以前のブログに書いてあるので省略する。

ジェットスターに乗った。つい10年前に、誰が大阪と東京を4000円で飛行機で移動できる時代が来ると考えていただろうか??
ジェットスターもヤフーもグーグルもフェイスブックもソフトバンクも、全部資本主義の理念から生み出されたものではあるが、結果として贈与的な概念を生み出している。
10年前、だれが無料で海外と電話ができることが想像できただろうか?無料で写真をクラウドに保存できることが想像できただろうか?少なくとも資本主義的な事柄から疎い僕には想像できなかった。

話は少しそれる。お上は絶えず下々を嫌がらせる。ちょっとしたことで無意味な嫌がらせ、規制を加え、つつましやかな生活を邪魔しようとする。それは江戸時代から今まで全く変わらない。
ジェットスターでは、運賃は安い代わりに、機内にアルコールの持ち込みができない、座席は狭い、それも携帯電話やペットボトルなどを収納するためのポケットすらない。座席指定するためには金がかかる。向こうから無料で割り当てられる座席は最悪な席に必ず通される。空いている座席に移動するのも原則的に禁止。搭乗して離陸前にトイレに行くことを基本拒否される。少しでも遅れたら搭乗拒否、理にかなっている規則もあるかもしれない。温かい飲み物の持ち込み拒否であるとか。しかし、乗って思うのは、無意味な嫌がらせを受けている、という気持ち。
つまり、安く乗せてやってるんだから、不自由な気持ちを体験しろ、という事だ。そこでJALとの区別化が図れるのだ。ちなみに、ジェットスターの筆頭株主はJALです。
このことからも、東京大阪の往復4000円の、いわば「贈与的」な概念は、資本主義の概念から「好むと好まざるとに関わらず」生まれていることが理解できるだろう。


間違いなく資本主義は終わりを告げようとしている。アメリカも日本も、経済的な成長は無理だろう。
あとは、その世界的に見た極端な富とエネルギーのの偏在を、公平に分配せざるを得ない時代が必ず到来する。
日本は国の政策として、格差を作ろうとしているように僕には思えるが、格差を作れば作るほど、贈与の概念は浸透していくことになる。人道という言葉は、経済的な価値よりも、重いという「建前」を人類は最終的に無視することができないからだ。


さて、その中で我々アーティストはなにをしていけばよいのか?善良なる精神性を持っている我々がなすべきことは何なのか??
悪意(資本主義的)からくる贈与的な体系を、我々は善意で他人に返していく行動を、個人レベルから始めていくことだ。つまり、誰かに何かを与えることを始めていけばいい。
それは金銭である必要はない。
僕の場合は、自分の音楽的な考えや思い、培ってきた技術や方法論、音楽に対するあらゆる僕の知る知識を、他人に対して余すところなく伝達すること。
埼玉に来た人に一食のご飯と宿を提供すること。
もっとちょっとしたことでもいい。目の見えない人の手助けをすることでもいい。
誰かに対して、ほんの少しの自発的な贈与の連続が、連鎖して、自分のもとへ帰ってくる。

お金がある人はお金を誰かに贈与してもいい。直接的な贈与である必要はない。例えば、芸術財団を設立するとか、助成金を芸術団体に与えるとか。


にはたづみプロジェクトで行おうとしていることは、その贈与のシステム作りなのだ。
銀座にあったスペースにはたづみはその贈与の精神を理解する人たちが作り出した場所であった。
高松建設から贈与された場所を、アーティストが自主運営して、他のアーティストの活動の支援をする。そこで新しい人々が出合い、新たな人々の潮流が生まれる。


にはたづみは場所ではなく、精神です。
僕は誰かに贈与している、そして、誰かから贈与を受けて活動している。
恩義を誰かに返していく。
誰だって自分のことが一番かわいい。だけど、100パーセントの自分に対する優しさを、たった1パーセントだけ、他人に与えてみよう。そう積極的に考え、行動すること。
それが全世界的な人類の精神主義への目覚めにつながる。

ただ、それを阻止しようとするものの力は相変わらず根強い。僕の生きている間にドラスティックに精神主義へ移行するのを見ることができるのだろうか?






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  1. 2017/01/28(土) 15:22:20|
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補完:音楽を体験するということ。

補完:音楽を体験するということ

僕の文章の至らなさにより、数点の誤解を生んでいるように思うのでここに補完します。


僕のいう、20代の若者とは、その全てを指すわけではありません。若い人の中には個性的で僕には思いもつかない感覚を持っている人もたくさんいてます。そういう人には僕自身積極的に学びを乞うこともあります。


あと、YouTubeや配信の音源が、デジタルであるから耳が養われないなどとは、一言も申し上げてない。
どうでもいいことですそんなことは。
プロレベルの人の耳は、スマホのスピーカーで聞いても、生の音の良し悪しが判断できます。又そうでなければならない。耳を養得ないことの理由が、ツールがデジタルであるから、ならば、その人たちは「時代に負けている」といえます。

  1. 2016/07/01(金) 12:19:18|
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ドラム論

ドラム論

ドラムは難しい。ドラムは一つの楽器ではない。いくつかの楽器が総合されてドラムと呼ばれるものになる。。
バスドラム、トップのシンバル、ハイハット、スネアドラム、等、すべては別の楽器といえる。
ドラマーはたくさんの楽器を同時進行で演奏するという離れ業をやってのけなければならない。
ドラムの仕事の主はリズムをつかさどること。ドラムは、バスドラムで四分音符、ハイハットは二分音符、シンバルにおいて八分音符をつかさどる。あらゆるリズムのオーケストレーションを一人で担当しなければならない。

ドラムは簡単だ。ドラムにはたくさんの要素がある。バスドラム、トップのシンバル、ハイハット、スネアドラム等。ゆえに表現の幅も、表現に対する選択肢も数多くある。ゆえに、四分音符、二分音符、八分音符などの様々なリズムのオーケストレーションを表現することが楽にできる。
ベースはそうはいかない。弦が四本の上に、原則的に一小節に4つしか音を出してはいけないというルールの下、あらゆる音符を表現できなければならない。要素がシンプルであるということは、それだけ表現の選択肢が少ないということになる。
コーヒーをおいしく淹れるためには様々な要素がある。豆のひき具合、湯の温度、湯と粉の接触時間、落とし方、蒸らしの時間、等様々な要素がある。だが、紅茶をいれるため必要なことは、適量の茶葉を温めたポットに入れて熱湯を入れるだけ。
コーヒーが上達するためには工夫すべき要素がたくさんあるが、要素の少ない紅茶を入れることにおいて、ワンランク上の味を求めることはこれは非常に困難なことだ。
どちらが難しいか、一口では言えない。
要素を持て余している時点でまだドラマーといえる存在ではない。
少ない要素で表現できる範囲のことに限定して表現している時点ではまだベーシストとは言えない。
要素を自由自在に使いこなせて初めてドラマー足り得る。四つの音のみしか聞こえてこないようではまだベーシストとは言えない。


日本人は基本的にジャズに向いていない。リズムを面的にとらえることが困難だからだ。
ジャズに限らず、西洋音楽のリズムは面だ。いや、立体かもしれない。何らかの有機的な質量をもった、いわば箱のような筒のようなものだ。
ひとまず、面、と表現することにしよう。
ところが日本人は、リズムを点でとらえる。点と点の間には何も存在しない。空間が存在する。
良し悪しではない。そういう資質なのだ。

絵画で例えると、西洋画で、キャンバスの地がむき出しになっている絵を見たことがあるだろうか?
現代的な絵画ならいざ知らず、いわゆる油絵は、その面をすべて絵具で満たす。
ところが、日本の絵画では、画材の地に何も塗られていない部分がある絵画はいくつもある。
書などはさらに顕著であろう。点を打った次の点までの空間は、和紙の上には存在しない。それを「懸想」させる何かが存在するのみだ。落下する墨の速度感が、それらを懸想させることもあるだろう。または次の点の打ちつけるタッチによりその空間に存在した速度を表現することもできるかもしれない。

西洋的な美は、そこに自分の言葉なり色彩なり価値観なりで空間を満たすことにある。一方、日本的な「美」は、存在しない空間を懸想させることにあるといえるかもしれない。
いずれが優れているかという話ではない。これらは「違い」でしかない。
ただ、ジャズ音楽をやるうえにおいて、「価値で空間を満たす」方法を必ず学ばなければならないだろう。


あるプロのドラマーに、ワークショップで、一拍を表現してみろ、といったところ、ブラシでスネアドラムをトンと叩いた。
それは点であり、一拍ではない。そのドラマーもそのことは理解している。だが、「思わず」出た行動が、トンと点をたたいたことが重要なのだ。
頭でわかっていることと、体が分かっていることは全然違う。とくに国民性からくるような習慣の違いを是正するためには、体が理解することが何よりも大切であると言える。



特別音量も音数も多いわけではないけれども、「うるさく」感じるドラマーというのがいる。
そういうドラマーは、リズムを「刻んで」いるのだ。
リズムは刻んではいけない。リズムは繋ぐものだ。
刻まれると、音楽が区切られるように僕には感じる。区切られると価値を押し付けられている気がする。価値を押し付けられると音楽が否定されている気がするのだ。
シンバルレガートという言葉がある。点と点で音を刻んでいくのではなく、シンバルの音を、リズムを、次の音につないでいく、それがシンバルレガートの意味なのだ。
レガートという言葉は、アーティキュレーション記号でいえば、スラーで表記されるだろう。スラーとは、音と音を繋ぐことだ。
音がつながるとはどういうことか?
過去の記事、音のケアとサジェストについてのことと同じことといってもいいのだけど、http://nakamuranokangae.blog55.fc2.com/blog-entry-56.html
その音が次の音をサジェストしていて、その次の音は前の音をケアしている状態のことだと思う。
その音は、最高の次の音をサジェストしていて、その次の音の表現が、前の音を最高の音に仕上げる、そしてさらにその次の最高の音をサジェストしているという連続。
連続するリズムの面の中では、どのような表現も自由足り得る。一切の束縛を感じることがない。ジャズ音楽は、意見の対立こそあるが、基本的には全肯定の音楽だ。




音を点でなく面でとらえるためにはどうすればいいか??
自分の音を聞くことから始まる。自分の音を聞く、そんなの当然聴いていると思うだろう。ところが、音が連続していないプレイヤーの多くは、自分の音を聞いていない。
自分が音を出すまでの意識しかない。聞くべきは、自分が出した後の音を聴くのだ。
空間をキャンバスであるとイメージする。そして、自分の音という絵の具がそのキャンバスを「過不足なく」満たしている、その音を聞くのだ。
空間を満たしている音を「見つめる」のだ。
そうすると、おのずと自分の出している音に重なってくる「他人の音」に耳が、目がいくだろう。
そうなってくるとしめたものなのだ。
音は、空間を満たすものである。その意識の開拓が、リズムを面的にとらえるはじめの一歩となるだろう。




ドラムはパターンではない。多くのドラマーはパラディドルなどのパターンの組み合わせをドラムだと思っている。違う。
とくにジャズにおいては4ビートという、多くの2ビート基本の音楽(8ビートも16ビートも広い意味では2ビートだ)とは違い、音が繋がっていく状態を構築するのに必要な要素が果てしなく多くなる。
要素は2ビートの倍ではない。2ビートは、強:強、強:弱、弱:強、弱:弱、の四種類の要素に要約されるが、4ビートは違う。全部強いの、最後の一拍だけ弱いの、最初のが一番強くて次のは二番目に強くて~、最初の一つは一番弱くてその次が三番目に~など、あげて言ったら、2ビートとの要素の開きは数乗の開きとなるだろう。あくまで、これはロジカルな話ではあるけれども、それぐらい4ビートは難しい。話は少しそれるが、ゆえに構造がシンプルである。ジャズのリズムのパターンはブラジル音楽のパターンやキューバの音楽のバターンに比べるとはるかにシンプルである。
キューバやブラジルの音楽は、シンプルな2ビートであるがゆえに垂直方向の構造は果てしなく複雑化していく。そういうことが可能な音楽なのだ。
余談だが最近のジャズの中には、4ビートであるにもかかわらず構造を複雑にしていったものが多くみられるが、そういう音楽は、4ビートのリズムを2ビート化してとらえているように思える。
つまり、ジャズのスイングをとらえるためには、上記したような、本当に複雑な4分音符の連続を完全にコントロールできなければ、本当の意味でスイングを理解することはできないのだ。
当然スイングはパターンで理解することはできない。シンバルのレガート一つだけで、あらゆることが表現できる。それが出来なければジャズを本当の意味で演奏することはできない。


シンバルのレガートはメロディーと密接なかかわりも持つのだ。
僕のトリオのドラマーでもある芳垣安洋のシンバルのレガートは本当に僕のピアノのメロディーをケアしている。残念ながら僕は彼の音のケアをケアできるほどの音楽力はない。
シンバルのレガートの八分音符一つ抜くだけで生まれるスペースがある。一つ増やすだけで、増える空間の密度がある。
その粗密をコントロールして音楽をレガートしていくことが出来る。
ドラムの仕事の一つとして、バンドにグルーブを与えるというものがあるが、バンドに与えるグルーブが一方向的、つまりドラム側からの提案のみに終始するドラマーが多い。ショートケーキのようなアンサンブルが求められる、http://nakamuranokangae.blog55.fc2.com/blog-entry-25.html
ような音楽においては、一方向からのグルーブの提案でもよいのかもしれないけれども、ジャズのような音楽においては、共演者の感じているスイングの形であるやら強さであるやら大きさのようなものを、一旦自分の中に取り込んで、再構築してバンドに提示する、というようなことができると、音楽の密度は増すだろう。
そういうこともケアとサジェストの一つといえる。





以上長々と書いてきましたが、くだらない嫌味話で最後を締めたいと思います。
僕は、クラシックのオケを聞くときに、主に打楽器を聞きます。そしてコントラバスを聞きます。
その理由は、自分の活動するフィールドにおいて、その二つの楽器の美しい音色をお目にかかることがなかなかできないからです。(笑)
優れたドラマーはあらゆる楽器の音を押し出すが、へたくそなドラマーは音をマスキングする。
キムサクで共演していた光田さんが本当にいいときは、木村のベースの音がティンパニーのように聞こえ驚いたものだ。
せめて僕の音を消さないで。ドラマー諸君。
















  1. 2016/03/17(木) 17:31:46|
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芸術家としての初心

究極の所、芸術家に必要な努力というのは、初心をどれだけ貫徹出来るか?だけであるといっても過言ではない。
ところが得てして、外的な要因によりその意思は簡単に挫かれる。
残念なことに、大半の芸術家、特に音楽家は、それが挫かれていることに気付いてさえいない。挫かれた先にはるのは、産業主義的な、音楽業界とのなれ合い。規模の大小はありこそすれ、ね。

自分の意思が挫かれる外的要因には様々なものがある。
創作の過程に訪れる貧困、もしくは、その逆もあるだろう。少しばかし作品が売れて有頂天になること、もあるだろう。
また、少しばかり得た地位であるとか、名誉であるとか、を、守ろうとしたときにも挫きは訪れる。
芸術的なある種の型を守ろうとすること、それも一つの負けなのだ。ただ、そんな純粋な話は今はひとまず置こう。

初心を貫徹すること、これはある意味守るということではないのか?そうではない。
初心とは、感動なのだ。今現在、どんなにくだらない産業音楽の世界に身を置いている音楽家でも、感動したからこそ楽器に向かったのだ。なりふり構わず楽器に、音楽に取り組んだ時期がない音楽家はいない。
そのときの気持ち、これを少しずつ外的な要因により、摩耗させられていってるのだ。
そのことに、ほんの少しだけでいいから気付けばいい。
そうすれば、今守ろうとしているレコード会社との契約を守ることの無意味さや、節を曲げてまでやりたくもない音を作っていることの愚かさに気付くだろう。

音楽家は貴族だ。芸術の中で貴族的な存在なのだ。
ノーギャラで演奏出来る音楽家はそうはいない。だが、多くの美術家は、ギャラリーに高い金を払い、展示させてもらい、あげく売れなければ完全赤字、売れても半分ギャラリーに手数料をもっていかれる。
その値段は、例えば潦をもし、営利目的で貸したとすると、一週間で30万円ぐらいだろう。
音楽家に、一週間30万円の貸しホールで、入場料の半分をホールにもっていかれるとして、音楽を続けていける人は一体どれぐらいいるだろうか??
僕は、貴族的な音楽家は音楽をやるべきでないと思う。
僕は自転車で地べたを這って日本全国を回った。だからわかる。

音楽家としてしか生きていけない人、以外音楽をやるべきではない。
芸術とはそういうものだ。
  1. 2013/09/26(木) 16:30:45|
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守り、認めること 例えば、魚の骨を取ってやること

子育てには四つの要素があるそうだ。
守る、守らない、認める、認めない、という四つの要素。
守り、認める、これこそが理想の子育てなのだそうだ。
僕は、年齢的にも職業的にも幅広い層の人々を知っている。子を育てている親も知っているし、育てられている子も知っている。ちょうど親離れをしようとしている時期の知り合いも多い。故に、自身の離婚のときに、離婚した夫婦の話、親に離婚された子供の話、等色んな立場の人の話を聞くことが出来たことは有意義であった。。
僕自身、一緒に住んでいる訳ではないとはいえ、子がいることもあり、子育てには無論興味がある。様々な夫婦の子育てや、様々な若者の育ってきた環境、等を興味を持って観察してきた。
色んな人たちを見てきて、本当の意味で守り、認める子育てが出来ている夫婦は案外少ない。
守り、認めない子育てに陥りがちなのだ。
考えてみれば、守ること、と、認めないこと、は実は良く似ている。
例えば、魚の骨を取ってやること、は、子供を守ってはいるが、認めていない。
この子は、魚の骨を取ることが出来ない、という判断を下しているのだ。このようなケースは多々あり、多岐にわたるだろう。
かくいう僕自身、親から守り、認められず育った。客観的に見て、僕の家の弟妹はかなり優秀だ。妹も弟も京都大学法学部を現役で合格し、妹は弁護士、弟は一流企業に勤め、おそらくは僕の年収ぐらいの月収があるだろう。その弟妹ですら、親から認められた認識は乏しいだろう。
無論、僕も41歳、今更、親に認められる認められないで自己評価が変わる訳ではないし、認められず育ったことの責任を親に問いたい訳でもない。
が、認められず育ったことが無意識下の自分の言動に現れていることは否めない事実だと思う。

認めることは子育てに限らず、音楽家等の育成に於いてもとても重要だと思う。
また、何らかの事業を行う上においても、とても重要だと思う。
好きな言葉に、山本五十六の「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。」という言葉がある。
命令し、やらせると、結果は出るかもしれない。だけど、その結果は継続しない。結果を継続させるためには、育成が必要なのだ。
特に中間管理職的な役割にいる人は、部下の出した結果で、上司に判断されるのだから、任せることには勇気がいることだろうと思う。僕たちのような世界に生きる者には想像のつかないストレスもあることだろうと思う。が、そういう状態で任せてくれたことに、応えようとするのではないだろうか??
僕は、自身のワークショップ等で最も重要に考えていることの一つに、思考させること、がある。
僕のワークショップで受講者に禁じている質問がある。それは、〜してもいいですか?という質問だ。
〜したいと思うのですが、どう思いますか?と聞いてくれ、と答える。
自分の力で考えたことに対して、是正し、僕の意見を述べる。育成の最初の段階は、思考することにある。僕は、疑問力、と呼んでいる。Why、が、思考に繋がり、Howになっていけばしめたものなのだ。

こんな言葉がある。
何かをなし得る人間は、両手で師の門を叩くことはできない。何故ならば、片手には既に自分の作品をもっているから。
かくいう僕も、17のときに作曲の先生の門を叩いた時、書きかけの交響曲をもっていったものだ。無論お粗末きわまりない作品だが。

話はそれたが、和音(僕の息子の名前。かずおと読む)を育てる上において、認めることを忘れずにいたいと思う。
子を認められる親でいたいと思う。


  1. 2013/01/17(木) 13:45:16|
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これからの僕の音楽活動のあり方について 水平から立体への移行

もともと大阪から上京する時に始めた自転車の旅、それを音楽に結びつけた自転車ツアー、2006年から続けて来たそれは本当に多くのものを僕にもたらしました。
都会で、漠然とライブハウスを行き来するだけの音楽家としてのあり方に疑問を抱いていた僕は、ほぼ直感的にチャリツアーに飛び出した。
とんだピエロなのではないかな?という思いも頭をよぎらないわけではなかったけど、旅を終えてみてそれは本当に色んなものを僕にもたらしてくれました。
テントを担いで、地べたで寝て、自分で最低限の調理器具で食事をこさえながら全国に轍を刻んできたことから感動を得ながら、感動を与えていく。そして、それは人との密接な関係を作っていくことになりました。
チャリツアー、それは友達を作る旅。

しかし、漠然とした物足りなさを感じ始めてもいました。

中津江ミュージックキャンプを終え、その答えが見つかりました。

チャリツアーは、色んな意味で丁寧なツアーではあったけど、所詮僕は通り過ぎていく旅人でしかない。そのことに物足りなさを感じていたのです。
もっと深く、ひとと感動を共有したい。
僕にとって、水平の旅はもう終わった。これからは、チャリツアーで得た友人達と、垂直的に、もっと掘り下げ、もっと積み上げていく。
そして、地域の人達や、音楽家やほかのアーティストとも感動を共有し、そして、共に学び、もっと深い精神的な繋がりや価値を求める活動をしたいのだ、と。

中津江で育んだ感動は、確実に人の心に共鳴し、それは波紋を広げています。
人は交わり、新たな繋がりを生む。
例えば僕は、みんなに伊藤大輔を紹介し、みんなを伊藤大輔に紹介した。大輔は、歌やワークショップを通じてみんなに感動をあたえ、それに共鳴し、波紋を広げる。
そして、伊藤大輔自身が学び、みんなから得た感動を、そして共鳴し、波紋は広がっていく。
事実参加者同士が僕のコントロールの範疇外で、自由な動きを見せている。
MCに参加した中津江在住のNくんは、東京までのチャリ旅に飛び出した。

音楽家が与えられるものは一方向の感動だけでは決してないと僕は思っている。
そしてそれを実践し、証明していく。
ピアノを弾くだけが僕の与えられる感動ではないのだ。

僕は、自転車で全国を線で結びました。
これからは、全国に塔を立てます。

中津江MCは続くし、共鳴する友達がいるなら、僕は全国どこへでも飛んでいきます。そこで、共に塔を立てよう。
どんな塔になるか?それはやってみなければ解らない。
それは、直感的に旅に飛び出したあの時と同じ。

二次元から三次元の旅へ、僕の旅は形を変えたのです。
  1. 2009/09/07(月) 12:41:05|
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レッスンについて 料金改定等

自宅レッスンの料金を改定いたします。
レッスン料金を改めます。
成人7000円→6000円
五回レッスン回数券30000円→25000円 
学生5000円→4000円

ついでに受講生募集。
受講希望者はメールください。
以下にレッスン詳細を記しています。


音楽やピアノを教えています。
主にジャズピアノを教えています。
コードの押さえ方、アドリブの取り方、理論、ピアノの技術的な練習方法、また、僕はベースを弾きますので、アンサンブルするレッスンになります。
ピアニスト以外にも音楽を教えます。(ボーカル、サックス、ベース等)
主に僕がピアノを弾いてのアンサンブルの授業になります。
勿論、その楽器の固有の技術について教えることは出来ませんので、初心者は不可です。既にアンサンブル可能なレベルの人に限ります。
ジャズはアンサンブルの経験が演奏技術の向上にもっとも繋がるものですから、非常に意義のあるものになるでしょう。
又、他の楽器のプレイヤーにピアノやピアノを使った理論の授業を教えることも致します。
レッスン形態については話し合って決めたいと思います。
一度だけレッスンしてもらいたい、とりあえず一度のレッスンで様子をみたい、というのでも構いません。
レッスン対象者ですが、ジャズ初心者は可ですが、楽器初心者は不可です。
ジャズや即興演奏は、楽器初心者には無理です。まず楽器を修得する事から始めなければなりません。
楽器に関しては、どうしてもというのであれば教えますが、僕より遥かに上手に楽器初心者を教える先生は回りにいくらでもおられることと思います。
あと、強いて条件といえば、僕のピアノを生で、もしくはCD等で聞いたことがあることです。
プロ思考でない方も歓迎です、がジャズを聞いて感銘を受けた方に限ります。 時々、ジャズが何たるか知らないのに教えてもらいたがる人がいます。クラシック以外のことがしたいのでしょうけど、そういう漠然とした目的意識の人を教えることはぼくには困難です。
レッスン場所は、基本的にさいたま市の北浦和の僕の自宅で教えたいと思います。
  1. 2009/08/26(水) 12:45:57|
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僕がテレビを見ない理由~エコとは

僕がテレビを見ない理由は、見る価値があると思う番組が少ないということもあるが、何よりもぼくはCMを見るのが嫌なのだ。

文明が進歩し、世の中は便利になったという。
確かに携帯電話は普及し、車も一家に一台、パソコンも個人が一台づつ所有する世の中となった。
昔に比べてずいぶん便利になったものだ。

それでも世の中に溢れる様々な物物物、この中に本当に必要なものは一体どれぐらいあるのだ??

僕には、不必要な消費を煽る、世の中のコマーシャリズムとそのからくりが滑稽に思えてならない。

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  1. 2008/10/03(金) 23:47:16|
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価値観の狭間

最近何となく過去を振り返ってみた。

20代の頃、僕は、こうでなければならないという自分の価値観にしたがって生きてた。
自らの価値観を刃に、様々な抵触するものをぶった切ってきた感がある。
30ぐらいから、すこーしずつそれが変わってきた。

変化は僕にはドラスティックに訪れることが多いのだが、このことは、しかしすこーしずつ変わってきたな。

[価値観の狭間]の続きを読む
  1. 2008/02/05(火) 17:56:45|
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おおらかである事、ハッピーである事

ハッピーである事、おおらかである事

ジャズミュージックを演奏する上において、最も重要な事、それは、おおらかでいる事、ハッピーでいる事。

おおらかな事を表現すること、ハッピーな事を表現する事、が大事なのではない。

どんなに難しい事を、前衛的な事を、複雑な事を、神秘的な事を、メカニカルな事を演奏していたとしても、おおらかな心、ハッピーでいる事、を忘れなければ、人には伝わる。

[おおらかである事、ハッピーである事]の続きを読む
  1. 2007/06/22(金) 02:05:57|
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更なる高みへ

僕には、音楽家として、立ちたい高みがある。

現代最高のジャズピアニスト、Hank Jonesの立っている高みに、僕も立ちたい。いや、僕はそれを超えたいと思っている。

彼の立っている場所は、山で例えるならエベレスト。
今、僕が立っているところは、せいぜい富士山か、穂高岳の山頂だ。

しかし、僕の気宇はエベレストよりも高い。

僕が、Hank Jonesを超えたいと思っている事を知ったら、大抵の同業者は鼻で笑うだろう。

笑うがよい。

超えられない、そう思った瞬間に、敗北なんだ。

その事を知らぬものは笑えばよい。

僕はピアニストであってアルピニストではない。
だから、いくら登山が大好きだからといって、エベレストやK2の高みに立つ事は一生かかっても無理だ。

だがぼくは、Hank Jonesの高みには立つ。

それは、僕には可能な事なのだ。そう信じる限り。
一生かけて貫き通す。それが僕の信念なのだ。

そう信じるものだけが、それをなし得るのだということを、僕は知っている。
  1. 2007/04/17(火) 23:42:35|
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