中村の考え

芸術家の政治参画についての僕の考え。

芸術家の政治参画についての僕の考え方

芸術家は、絶えず新しい価値観を希求していく。それは宿命といっていいだろう。
その中において、現行の価値観を否定するという側面は否めないだろう。
故に、多くの芸術家にとって、現行の政治体制を是とし、体制翼賛することは、ほとんどありえない。

多くの芸術家は、世の中の現行の価値観よりも、より優れた進歩的な価値観を持っているのが通常だろう。表現者とはそういうものだ。
ストラヴィンスキーは、当時の調性音楽の中においてはより進歩的で、多くの人はその理解をするのに数十年の時間を必要としただろう。
アインシュタインが特殊相対性理論を提唱した時、その事を本当に理解出来た人は、世界中で10人に満たなかったらしい。
羽生善治の終盤の寄せの手筋を理解できる素人が何人いるだろうか?


そういったことと政治は一件無関係に思えるだろう。が、それらは現行の社会の中において行われている、社会行動だ。。
そしてそれは、前述したように反社会性を持つ宿命すら孕んでいる。
そう考えると芸術は政治と無関係であろうはずもなかろう。

しかし僕は、多くの芸術家が、ただ単なる「不平屋」に終始しているようにしか見えない。
政治参画とは、選挙に行くことではない。SNSで都合のよい記事をシェアすることではない。

僕は、反社会性すら含まれるであろう、表現、において、現行の社会と乖離して表現するをよしとはお思わない。過激な言質により、自分の表現の場をこの社会において自ら意図的に狭めることでもない。
逆に、現行の社会システムを都合よく使い、小器用に泳ぎわたってる似非芸術家に対して、好感度は一切ない。

芸術家の政治参画。
それは相反する現行の価値観と、より高い次元で昇華させていくこと、に対して微力を尽くすことだと思っている。

何度も言うが、世の中は好むと好まざるとにかかわらず、進歩している。
16世紀のスペインによるホロコーストを近代において再現しようとした国家がいた。その国家の犯した罪は、人類の罪として断罪されている。
1945年に広島と長崎に落とされた原爆は、ついにその後あらゆる紛争においてですら、使う事が出来ない。それは、善意によるものではない。人類がそれを禁忌であると、好むと好まざるとにかかわらず、学習しているからだ。

我々が考える、ユートピア、例えばにはたづみの提唱する贈与主義の理念、精神主義の時代の到来。それは、僕が生きている間に成立することは殆ど不可能だろう。
だから行動しなくていいのか?思考しなくていいのだろうか?そうではない。

僕は、自分の考え、想い、それらは、遺伝子として人類の中に存在していくだろう。そう思い、表現活動をしている。
名を残す、という意味ではない。そんな投機的な動機は僕にはない。僕の名前など22世紀には完全に消滅するだろう。それでよい。
だけど、僕の表現の、ほんの少しの遺伝子は、未来永劫に、形を変え、存在していくだろう。
それが、僕が考える、政治参画だ。


我々、先進した考えを持つ芸術家が、自分の直接の利益にはならない価値、に対して率先して自らの労力を割くこと、時間を割くこと、そういった範を垂れることが、政治参画だ。
自分の知性を人に惜しみなく分け与えること、それが、政治参画だ。








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  1. 2017/06/23(金) 14:27:39|
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間違いを学習すること

楽器を習得する上に於いて、練習は不可欠なのだけれども、その秘訣の一つとして、間違えず練習するというのがある。
間違えずに練習する?間違えるから練習するのではないか?確かにそう思うだろう。
だけど、人間は、間違いも学習してしまうものなのだ。故に、なるべく間違えないように丁寧に練習するのが望ましいのだ。
ゆっくりと、ゆっくりと。


間違いを学習するというのは、もっと長いスパンにおいても言えることだ。
一つの敗北体験は、その敗北を学習してしまう。
敗北とは、何かに挑んだ結果、それを成しえなかったことではない。
何かに、挑むことを避けたり、諦めたりすることなのだ。

色んな人々が僕に挑んできた。
そして、何らかの結果を得て去って行った。
伊藤大輔は、その最たるものだろう。

だが、挑んだものの、何も得ることをなく去って行った人もたくさんいる。
一つの覚悟を貫徹しなかったことは、その人の敗北体験を学習する。


最近、僕の元を去った人がいる。その人は、もともと頑迷な人で、僕のアドバイスを全く受け付けなかった。おそらく本人は、受け付けていないことに気付いてすらいないと思う。それぐらい頑迷な人だった。

僕は、自分の確信した言葉、本当に思っていることだけをその人に伝え続けた。
彼女にとっては相当耳が痛かったことと思う。
僕の言葉を拒絶し、言い訳に次ぐ言い訳をしていた。自己正当化に次ぐ自己正当化をしていた。だが、それらを自分の信念であると勘違いしていた。いくら僕の言葉でも、自分の信念から外れた言葉を聞かなくてもいい、そう思っていた。
悪いのは真さんのほうだ。そう思っていたと思うし、実際にそう言われたこともあった。

だが、それでも僕は、自分の確信した言葉、本当に思っていることだけをその人に伝え続けた。
その人が、変わることを信じて、その人が僕と共演したい、より高きを目指したいという想いが、本当の気持であることと信じて、僕は接し続けた。
ついに最後まで、その人は僕の言葉を受け止めることができなかった。そして、最終的には、私のピアニストは中村さんでなくてもいい、そう思って僕のもとを去った。

伊藤大輔が僕とやらなくなったことと、その人が、僕の元を去ったこととは、大きな違いがある。
大輔は、僕にチャレンジした。その人は、チャレンジしなかった。
無論、才能の差は大きい。だが、本当の意味での才能とは、挑戦し続けることなのだ。

その人は、たくさんの敗北体験を学習し続けてきた人だ。ただ本人はその事に気付いていない。
いま別のピアニストと活動しているようだ。だが結果としては同じ事だろう。または、そのピアニストが不誠実な人ならば、本当の事をその人に伝えることなく、居心地のよいように演奏させてもらって、それでよしとするだろう。

本当の事を言ってくれる人は貴重だ。
僕は自分がだれに対しても誠実である、という事だけは自信を持って言える。
言いかえれば、僕は自分に対して誠実であるという事にだけは自信を持っている。

ちなみに、僕は、その人と共演することをもうやめたら?と何度も幾人にも言われた。
僕自身も心が挫けそうになったこともあった。だが、僕はその人の元を去らなかった。
あきらめるのは簡単だ。だが、諦めずにその人に「挑み続ける」事が、僕の生き方なのだ。
無論、万人が僕のピアノに挑まなければならないというわけではない。
だが、その人は、僕のピアノに憧れて、より高い音楽の道を歩もうと、僕に近づいてきた。しかし、その想いを貫徹させることができなかった。その事こそが重要なのだ。

その人はまた一つ敗北体験を積んだのです。また一つ、間違いを学習したのです。
僕はもうその人の事を見捨てました。

上記した事は、音楽の話のみに非ず。人生すべてにおいて言えることである。

次はだれが僕に挑んでくるのか?そして、想いを貫徹させることができるのか??

どんな人が来ようが、僕は誠実に接する。それが僕の生き様だ。


  1. 2017/05/20(土) 13:16:40|
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