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中村の考え

今アーティストが為すべきこと

自分の表現は、それが表現された時点で自分のものではなくなる。
僕がピアノの鍵盤に指を下ろした瞬間に、その音は僕のものではなくなる。
それは、誰かに見られ、感じられ、考えさせている。
僕はそれを音霊であると思っている。
音それ自体が持つ霊(たましい)。

自分の発言も、それが発言された時点で自分のものではなくなる。
言霊とはそういう意味だ。


まず見ること。
ちゃんと見ること。

そして、感じること。
ちゃんと感じること。

そして考えること。
ちゃんと考えること。

今のこの世界の中において、自分が何を表現し、何を発言するべきか、それらをしっかりともう一度見極めて、この混沌の中へと発信する。

我々アーティストは、時代に先駆けた感性を持っていなければならない。
人々が見れないものを見て、感じられないことを感じ、考えられないレベルまで思惟を広げることができるのだ。それこそがアーティストの為すべきこと。

そして、到達した「何か」を混沌の世界へ発信する。それが我々の仕事だ、と僕は思っている。
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  1. 2020/04/02(木) 11:58:05|
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ドラッグと芸術に関しての僕の考えを述べます。

ドラッグが音楽に影響を与えるか、などというつまらない議論が多くなされている。
実にくだらない。
ありがちな話です。内角高めのボールに対して、ここに投げられたらそりゃ打てないわ、とか、外角低めいっぱいのストレート、ここに投げられたら打てないわ、とか、なんでそのボール見逃すんだよ!とか、野球に限らず、羽生さんの妙手とか、過激なクライマーの死であるとか、なんでもいいのですが、専門家の専門的な分野に関して素人が専門的な口出しをすることに対して、猛烈に違和感がある。
その内角のボールが、どれぐらい打ちにくいか、体験したことがないのだからわかるわけがない。
ただ、テレビでの解説者が、そう言っている、という、情報の蓄積、が、自らの経験である、と、錯覚してしまうのだ。
そういうことは音楽の世界でもよくあり、ただのリスナーなのに、プロ一年生の若者などに上から目線で知ったような口を聞く人はたくさんいる。
人は、自分以上の人間の、本当の意味での感覚を、本当の意味で知ることは不可能です。
僕程度の山登りやチャリ旅しかしない人間が、田中幹也さんの旅の全貌を想像することは難しい。いくらその話を聞いても、リアリティーを持って、その困難を知ることは難しい。
アマチュアでギターを触るレベルの人間が、ジョンスコフィールドがどういう感覚で音楽をしているのか、想像するのは難しい。
ただ、幹也さんの旅の話を聞いたり、ジョンスコフィールドの音楽や話を聴いて、いや、拝聴して、楽しむことはできるし、疑似体験することもできるだろう。しかしそれは、ある種の高みに立った人間の理解を、分かち合っているだけであるということは理解するべきだろう。
無論、それらに触れる人、にもある種の鍛錬があり、ある種のレベルの高低があると思う。
例えば、音楽を聴く耳の肥えたリスナーもいる。より深い理解を求めているリスナーにとっては、音楽を聴くこと、も一つの求道だろう。
黒森さんの料理を食べても、味のわからない人間には、ああ、美味しいね、で終わるかもしれない。でも、ある種の味覚を鍛錬したグルメな人ならば、より深い理解を楽しめるだろう。
またそういう人たちが、玄人に意見することもあるかもしれない。が、それが個人の感想レベルの価値をもたらすことは、玄人の側からは無い。また、本当に聴く耳があるリスナーが、そんな感想を玄人に述べることは、まず無い。
僕は、田中幹也さんの旅の全貌を知ることはできないが、彼がそれに駆り立てられるモチベーションは理解できるつもりだ。
田中幹也さんと自分を比べるのもおこがましいが、僕もそれなりに自分の道を歩んできた矜持はある。そしてそれにより、ある種の高みを目指している人間の、気持ちは理解出来るつもりだ。
という前置きの上に話します。
ドラッグは音楽に影響を与えるか?
タバコのように、全く利益のないドラッグもこの世にはあるが、多くのドラッグはリーガルイリーガル問わず、それなりに精神に対して価値をもたらす。
美味しいワインと食事は、心を豊かにするだろう。そしてワインによって得た豊かな心は、その人の創作に影響をもたらすだろう。
問題なのは、ワインがなければ、豊かな心をもたらすことが出来ない、ということだ。それには問題がある。
つまり、ドラッグは人の心を豊かにもするが、それなしでは豊かになれないという、依存ももたらす可能性がある。
ドラッグは音楽に影響をもたらす。がそれはドラッグのみに非ず、あらゆる人としての営みや経験は、その人となりに影響をもたらす。
それはアーティストに限った話ではない。
あらゆる喜び、悲しみ、痛み、快感、飢え、乾き、光も闇も物事の全てから人は影響を受ける。
そしてそのセンサーの極めて高い人間が、そしてそこから得た何かを、自分の力で自分のものとして再構築しうる人間のみが、アーティストなり、料理人なり、冒険への道を歩む。そしてそれらは自分自身の道でしかないのだ。
優れたアーティストになる人の資質の一つとして、好奇心が旺盛である、ということがいえる。
あらゆる人としての営みに対して、積極的なインプットを求めていく姿勢が大事であることは言うまでもない。
法律上の問題があるので、日本でのそれは僕は勧めないが、合法な外国において、マリファナをやるチャンスがあれば、やった方がいい。
あらゆることは、同義に悖ることでなければ、やってみる方がいい。
もちろん、酒が体に合わない人がいるのと同様に、マリファナが体に合わない人もいるだろうし、ちっとも楽しめない人もいるかもしれない。でも、やってみないとそのことはわからない。
勿論、ドラッグのことだけではない。僕はお誘いは可能な限り断らない。どんなお誘いであっても。
飲み会のお誘いであろうが、ダンスの公演であろうが、海外旅行だろうが、なんでもいい。お誘いは断らない。
勿論、美女からのデートのお誘いは断る理由もない。
同義に悖るお誘い、泥棒しようよ、というようなお誘いでない限りは、自分の環境的に実施出来る事に関して、自分の労力や金銭を吝嗇しないことを僕は自分の旨としている。
そういう経験の蓄積が、自分の感性を磨いていると確信しているからだ。
さて、ドラッグは音楽に影響を与えるが、ドラッグがないと音楽が出来ないわけではない。
僕の現在の音楽に対して、ドラッグが与えた影響など、0.000001%ほどしかないだろう。あらゆる経験が僕の感性を構成しているが、その中でも微細な影響だろう。
俺の創作にはドラッグが必要なんだ、だから違法だろうがやるんだ、といっているようなアーティストはダサい、と書いている文章を読んだ。無論書いた人はアーティストではない。アーティストの本質を理解している発言ではない。
そんなアーティストはこの世にはいない、と僕は思う。
もしそういう人がいたとしたら、それはアーティストではない。アーティストのポーザーだ。
チャーリーパーカーがヘロインをやっていたのは、クリエイティビティーとはまた別のところのモチベーションに基づくものだろう。
おそらくは、感受性の豊かな人間にとって、この世の中を生き抜くことは厳しい。あらゆる事柄が自らを傷つけていく。
ミュージシャンは表現者の中で最も感性が暗い人間がなるものだと僕は思っている。
暗く、闇へ逃避するための手段として、ヘロインを用いたのだと思う。
長生きする、出来る人間は、ある意味では鈍い人間なんだ。優れたクライマーは皆20代で死ぬんだ、というような話を聞いたことがある。
ただ、僕は世界最高峰の芸術家である、チャーリーパーカーの、本当の意味でのクリエイティビティーと、そのモチベーションを、残念ながら知る高みにいるわけではない。
もしかしたら、自分の及びもつかない感性の人間にとって、ドラッグを、しかもヘロインというダウナーのドラッグなしには創作できない理由があるのかもしれない。
故に、ドラッグ無しで演奏出来ないアーティストなんかアーティストではない、などという論を僕は軽々しく言えない。
ただ、一つだけ言えることは、本気で何かを追い求める人は、その行為が反社会性を孕むものであったとしても、躊躇なく、我儘に、我が道を貫くだろう。
下々の人々は、その人の行動を、反社会性を求めてのことである、と判断するかもしれない。
しかし、本当の求道者には、その行為が反社会性があるかどうかということに対する、相対的な評価軸など存在しない。
ただ、追い求めたい、何か、があるのみである。
人は、自分以上の人間を理解することは、困難である。
ひとつ方法があるとするならば、自分にはまだ理解できない感覚があるのだ、ということを知ること、から、その理解が始まる。
つまらない論評をしている暇があったら、自らの無知を見つめ直す時間を持った方がいい。
  1. 2019/03/18(月) 12:54:38|
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我儘

少し誤解を与える文章であるかもしれない。

自分の人生を振り返ってみて、20代はがむしゃらに音楽に取り組んだだけの10年だった。
30台を振り返ってみる。30代は、ただひたすら、出る杭が打たれた10年だったように思う。

30台に僕は何をしたのか?上京し、キムサクを世に出し、キムサクは解散し、ソロの活動を本格化させ、自転車ツアーに着意し、実行した。トリオを結成し、ミュージックキャンプを始め、にはたづみプロジェクトを発足させた。
その都度、僕は人の助けを借りてそれらを実行してきた。だが同時に、色々な人たちが、あの手この手を使い、僕の進もうとする道を阻み続けてきた。
道を阻もうとする人は、実は敵であるだけではない。
むしろ味方が自分の道を阻み続けるのだ。
親切に言ってくれること、親切から助言くれることのすべてに耳を傾けていたら、自らが信じる道を進み続けることはできない。

田中幹也さんという人がいる。彼は冒険家という言葉を使われるのは嫌がる。
僕は彼の講演を聞きに行ったことがある。その中での彼の言葉で最も印象に残った言葉。
最終的に人の意見は絶対に聞かない。という言葉。
僕は、ある種の「高み」を目指す者に、必要不可欠な、我儘、を感じた。

僕は、振り返るといろんな人々の意見を聞き入れてきたが、しかし最後の最後で僕は人の意見を聞かなかったと思う。
やりたいことをやり通してきたと思う。

上京したての頃の僕を取り巻く音楽環境。夢と希望をもって上京した僕のそれらを挫く。
色んな先輩ミュージシャンや業界人のアドバイスというか、たしなめというかをもし聞き続けていたとしたら?
自転車の旅をやろうと思うと相談したときに色んな人々に反対された。何の意味があるの?と。
もしその意見を聞いていたら?

人によって人生で登ろうと思っている山は異なる。
あるものは秩父で満足するが、あるものはエベレストを目指す。
秩父でいいと思っている志の低い先輩や、秩父ぐらいで安全に山登りを楽しんでほしいと思っている身内にとって、エベレストを目指す僕の行動は無謀に思えた事だろう。

小さなところで予定調和的なバランスの中で演奏している諸先輩方のツアー中に、僕一人が真剣に音楽に向き合い、しかしそれはチームの予定調和は乱すものだった。
お前の演奏はチームの調和を乱すとツアー中に何度も言われたが、僕は聞く耳を持たず、最終日のミーティングで、リーダーに、真面目に吹け、と言い残しバンドを脱退した。
もしこのバンドを続けていたとしたら?彼らの演奏に調和していたとしたら?
あんな音を出すプレイヤーになっていたかもしれない。


人の意見を聞き入れてはいけない、といっているのではない。
誰でも、他人から育まれるし、他人に助けられる。他人にたしなめられるし、自分が間違っていることもむろん多々ある。

が、自分が確信している、やりたいこと、価値、に関しては、絶対に人の意見を聞いてはいけない。

僕の進んできた道は誰も進んだことのない茨の道でした。
道のない道を進む僕を、あざ笑っていた先輩達、心配していた身内、あの手この手でその進むべき道を翻意することを勧められた。親切に、味方のふりをして、間違っていると断定され、甘い道に誘導する誘惑、そして自らの楽をしたいと思う気持ち、様々な要素が僕の進むべき道を阻んだ。

だが、僕は進み続けた。今思えば、である。当時は進んでいるのかどうかもわからなかった。また当時僕が我儘にふるまっていることに気付いてすらなかったと思う。
でも進み続けた結果、ふと振り返ると僕の歩んでいる道の後ろを歩む者がいる。
ふと気づけば、僕を後ろから押してくれる仲間がいる。
僕の切り開いた道を舗装してくれる者もいる。

頑迷という資質は、しばしば悪い意味合いにおいて使われるが、受動的な意味合いにおいて頑迷であってはいけないが、能動的には頑迷であることは、何かを成すものにとっては、必要な資質なのだ。


  1. 2018/12/04(火) 11:32:22|
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芸術家の政治参画についての僕の考え。

芸術家の政治参画についての僕の考え方

芸術家は、絶えず新しい価値観を希求していく。それは宿命といっていいだろう。
その中において、現行の価値観を否定するという側面は否めないだろう。
故に、多くの芸術家にとって、現行の政治体制を是とし、体制翼賛することは、ほとんどありえない。

多くの芸術家は、世の中の現行の価値観よりも、より優れた進歩的な価値観を持っているのが通常だろう。表現者とはそういうものだ。
ストラヴィンスキーは、当時の調性音楽の中においてはより進歩的で、多くの人はその理解をするのに数十年の時間を必要としただろう。
アインシュタインが特殊相対性理論を提唱した時、その事を本当に理解出来た人は、世界中で10人に満たなかったらしい。
羽生善治の終盤の寄せの手筋を理解できる素人が何人いるだろうか?


そういったことと政治は一件無関係に思えるだろう。が、それらは現行の社会の中において行われている、社会行動だ。。
そしてそれは、前述したように反社会性を持つ宿命すら孕んでいる。
そう考えると芸術は政治と無関係であろうはずもなかろう。

しかし僕は、多くの芸術家が、ただ単なる「不平屋」に終始しているようにしか見えない。
政治参画とは、選挙に行くことではない。SNSで都合のよい記事をシェアすることではない。

僕は、反社会性すら含まれるであろう、表現、において、現行の社会と乖離して表現するをよしとはお思わない。過激な言質により、自分の表現の場をこの社会において自ら意図的に狭めることでもない。
逆に、現行の社会システムを都合よく使い、小器用に泳ぎわたってる似非芸術家に対して、好感度は一切ない。

芸術家の政治参画。
それは相反する現行の価値観と、より高い次元で昇華させていくこと、に対して微力を尽くすことだと思っている。

何度も言うが、世の中は好むと好まざるとにかかわらず、進歩している。
16世紀のスペインによるホロコーストを近代において再現しようとした国家がいた。その国家の犯した罪は、人類の罪として断罪されている。
1945年に広島と長崎に落とされた原爆は、ついにその後あらゆる紛争においてですら、使う事が出来ない。それは、善意によるものではない。人類がそれを禁忌であると、好むと好まざるとにかかわらず、学習しているからだ。

我々が考える、ユートピア、例えばにはたづみの提唱する贈与主義の理念、精神主義の時代の到来。それは、僕が生きている間に成立することは殆ど不可能だろう。
だから行動しなくていいのか?思考しなくていいのだろうか?そうではない。

僕は、自分の考え、想い、それらは、遺伝子として人類の中に存在していくだろう。そう思い、表現活動をしている。
名を残す、という意味ではない。そんな投機的な動機は僕にはない。僕の名前など22世紀には完全に消滅するだろう。それでよい。
だけど、僕の表現の、ほんの少しの遺伝子は、未来永劫に、形を変え、存在していくだろう。
それが、僕が考える、政治参画だ。


我々、先進した考えを持つ芸術家が、自分の直接の利益にはならない価値、に対して率先して自らの労力を割くこと、時間を割くこと、そういった範を垂れることが、政治参画だ。
自分の知性を人に惜しみなく分け与えること、それが、政治参画だ。








  1. 2017/06/23(金) 14:27:39|
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間違いを学習すること

楽器を習得する上に於いて、練習は不可欠なのだけれども、その秘訣の一つとして、間違えず練習するというのがある。
間違えずに練習する?間違えるから練習するのではないか?確かにそう思うだろう。
だけど、人間は、間違いも学習してしまうものなのだ。故に、なるべく間違えないように丁寧に練習するのが望ましいのだ。
ゆっくりと、ゆっくりと。


間違いを学習するというのは、もっと長いスパンにおいても言えることだ。
一つの敗北体験は、その敗北を学習してしまう。
敗北とは、何かに挑んだ結果、それを成しえなかったことではない。
何かに、挑むことを避けたり、諦めたりすることなのだ。

色んな人々が僕に挑んできた。
そして、何らかの結果を得て去って行った。
伊藤大輔は、その最たるものだろう。

だが、挑んだものの、何も得ることをなく去って行った人もたくさんいる。
一つの覚悟を貫徹しなかったことは、その人の敗北体験を学習する。


最近、僕の元を去った人がいる。その人は、もともと頑迷な人で、僕のアドバイスを全く受け付けなかった。おそらく本人は、受け付けていないことに気付いてすらいないと思う。それぐらい頑迷な人だった。

僕は、自分の確信した言葉、本当に思っていることだけをその人に伝え続けた。
彼女にとっては相当耳が痛かったことと思う。
僕の言葉を拒絶し、言い訳に次ぐ言い訳をしていた。自己正当化に次ぐ自己正当化をしていた。だが、それらを自分の信念であると勘違いしていた。いくら僕の言葉でも、自分の信念から外れた言葉を聞かなくてもいい、そう思っていた。
悪いのは真さんのほうだ。そう思っていたと思うし、実際にそう言われたこともあった。

だが、それでも僕は、自分の確信した言葉、本当に思っていることだけをその人に伝え続けた。
その人が、変わることを信じて、その人が僕と共演したい、より高きを目指したいという想いが、本当の気持であることと信じて、僕は接し続けた。
ついに最後まで、その人は僕の言葉を受け止めることができなかった。そして、最終的には、私のピアニストは中村さんでなくてもいい、そう思って僕のもとを去った。

伊藤大輔が僕とやらなくなったことと、その人が、僕の元を去ったこととは、大きな違いがある。
大輔は、僕にチャレンジした。その人は、チャレンジしなかった。
無論、才能の差は大きい。だが、本当の意味での才能とは、挑戦し続けることなのだ。

その人は、たくさんの敗北体験を学習し続けてきた人だ。ただ本人はその事に気付いていない。
いま別のピアニストと活動しているようだ。だが結果としては同じ事だろう。または、そのピアニストが不誠実な人ならば、本当の事をその人に伝えることなく、居心地のよいように演奏させてもらって、それでよしとするだろう。

本当の事を言ってくれる人は貴重だ。
僕は自分がだれに対しても誠実である、という事だけは自信を持って言える。
言いかえれば、僕は自分に対して誠実であるという事にだけは自信を持っている。

ちなみに、僕は、その人と共演することをもうやめたら?と何度も幾人にも言われた。
僕自身も心が挫けそうになったこともあった。だが、僕はその人の元を去らなかった。
あきらめるのは簡単だ。だが、諦めずにその人に「挑み続ける」事が、僕の生き方なのだ。
無論、万人が僕のピアノに挑まなければならないというわけではない。
だが、その人は、僕のピアノに憧れて、より高い音楽の道を歩もうと、僕に近づいてきた。しかし、その想いを貫徹させることができなかった。その事こそが重要なのだ。

その人はまた一つ敗北体験を積んだのです。また一つ、間違いを学習したのです。
僕はもうその人の事を見捨てました。

上記した事は、音楽の話のみに非ず。人生すべてにおいて言えることである。

次はだれが僕に挑んでくるのか?そして、想いを貫徹させることができるのか??

どんな人が来ようが、僕は誠実に接する。それが僕の生き様だ。


  1. 2017/05/20(土) 13:16:40|
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