中村の考え

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他の地方に比べて東京のジャズシンガーのレベルがダントツに低い理由について

東京のジャズシンガーがなぜ全国的に見てもダントツでレベルが低いのか

まず最初に、東京に限らず、またジャンル問わず、シンガーというのは楽器演奏者に比べレベルが低い。
理由は、楽器を演奏するためにはそれなりの鍛錬が必要だが、ただ歌うだけであるならば誰でも歌えるからだ。つまり、とっかかりのハードルがそもそも低いということだ。
故に、音大では最も声楽科の偏差値(というのは音楽においては存在しないけれどもわかりやすくこう記す)が最も低い。ピアノ科に行きたくて行けなかった人が声楽を目指すというパターンが多い。そんな動機では当然、上手かろうはずもない。
まあ現在では、ジャズ科、という更に偏差値の低い学部があるが…。
ただこれは相対的な話であり、絶対的な意味合いに於いてシンガーが器楽奏者に劣るということではない。
フィッシャーディスカウとホロヴィッツ、メルトーメとジョージシアリング、いずれが優れているかなど論じることすらナンセンスである。
歌は誰にでも歌えるが、一流のレベルに到達するための鍛錬は、他の楽器に比べて容易である訳ではない。
要するに、シンガーのレベルが低いというのは、「底辺のレベルが低い」ということに他ならない。


さて、日本に限らず、あらゆる地域において、音楽やる前のお作法というか、風習というか、ローカルルールのようなものがあると思う。些細なことでは大阪のベーシストはチューニングトーンをGで取るが、たいていのほかの地方ではAでとるとか、札幌ではオリジナルを持ち寄って演奏する頻度が他の地方に比べて多いことや、世界的なことでいえば、ドイツ系の交響楽団、ウイーンフィルなどではロータリートランペットを使うことが多いということだとか。
おそらくはニューヨークのジャズとウエストコースとのジャズにおいてもちょっとしたローカルルールの違いなど一杯あるだろう。
そういったことはいろんな意味で興味深いことだし、研究したら面白いかもしれない。


東京ジャズボーカル界には大きな害悪が二つある。
客さえ入れられればどんなヘタクソでも出演できてしまう店のシステムと、伴奏者の基本姿勢がなってないこと、ということ。


ほとんどの東京のジャズシンガーは、アンサンブルが出来ない。
アンサンブルとは、相手に合わせることでも、相手に合わせてもらうことでもなく、共演者を操作することだ。
操作するためにはサジェストできなければならないが、相手からもまたサジェストがある。それを受け答えして新たなサジェストをしていくというような、音楽上のキャッチボールができることがまずアンサンブルの基本だと思う。むろんこれは歌に限った話ではない。

ところが多くの東京のピアニストは、アンサンブル出来ないシンガーに対して一方的なカラオケのような伴奏をする。まるでシンガーがバックを操作できているかの如く振る舞うのだ。
そしてそういうピアニストが歌の伴奏がうまい人、という評価を得る。

東京に出てきてすぐ、本当に下らない銀座の店で歌伴の仕事をしていたのだが、シンガーがへたくそなことは兎も角、出演している東京の一線クラスのミュージシャン達の、シンガーに対する姿勢がひどすぎることに対して僕は驚いた。誰一人まともに伴奏などしていない。どうせ歌えるはずがない、と思って、キャッチボールをすることにチャレンジしている人など一人もいなかった。一方的な与えるだけの伴奏、カラオケの伴奏に徹していた。
僕はその人たちの、ミュージシャンとしての挟持を疑う。

僕はその中で一人だけ本気で伴奏をしようとしていたら、こんな伴奏で歌えない、と、ステージ上で、曲中に、歌っている最中に、マイクを通して言ったシンガーがいた。

僕は、アンサンブル出来ないシンガーに対しては、アンサンブル出来ていない、ということをはっきりと明示する。というより、アンサンブル出来ない人に対して、僕はアンサンブル出来ない。当然だ。アンサンブルの基本はキャッチボールなのだから。
ボールをキャッチできない人とキャッチボールが出来るか?
僕は、懇切丁寧に取りやすいようにボールを投げてやることは出来る。7歳の息子に取りやすいようにボールを投げることは出来る。僕はプロ野球選手並みのすごい球をシンガーに投げつけている訳ではない。本当に取りやすいように、手元にふんわりと、可能な限り工夫して投げているのだ。でも、それを取れない人とキャッチボールは出来ない。



シンガーはピアニストが育て、ピアニストはシンガーが育てると思う。
そういういいサイクルが、関西のジャズ界には存在する。
大阪のピアニストの層は厚い。竹下清志、岩佐安彦、木畑晴哉、中島徹など、日本レベルで見てトップレベルのピアニストが幾人かいる。
無論大阪にも、僕の目には伴奏に少々難があると思われる人もいるはいるが、少なくとも上記したような演奏はしない。関西のジャズボーカリストは必然的にいい経験を積んでいることになる。



かくいう僕も、20代の前半、綾戸智絵や、東雲マリといった格上のシンガーとの本気での共演により、歌の伴奏の技術、音楽の技術を磨いてきた。
そしてそれを僕の後輩の音楽家達、例えば溝口恵美子(年齢的には同い年だが)や、伊藤大輔(彼は東京だが)に伝えてきた。
そして溝口は木畑と共演し、彼らに伝えてきたに違いない。木畑はそれを今大阪のたくさんのシンガーに対して伝えているだろう。
そういった正の連鎖が、東京のジャズ界にはほとんど見られない。
むろん東京のジャズシーンにおいても本当にトップでやっている人たちの中には素晴らしいシンガーもいるだろう。だけど、東京のシーンの中において、本当の意味で切磋琢磨できる環境は、ほぼないと言っていい。
僕は阿部智子に東京を離れ札幌に帰ったらどうかと提案した。
汚水の中にいてせっかくの才能を汚してほしくないという思いがあったからだ。
どんな環境においても自分の精神が小揺るぎもしないという立場と自身を蓄えてから、東京に戻っておいでといった。



しかし関西の音楽シーンや札幌の音楽シーンが全体的に東京よりいいとは僕は思わない。
関西のベーシストは東京に比べレベルが低いし、管楽器奏者もしかり。
演奏に責任感がない人が多いし、うまく行かないときのあきらめが早い人も多い。
音楽のスケールが小さいプレイヤーも多い。
関西の嫌な一面。
また僕は札幌ほどミュージシャンが大事にされていない地域を他に知らない。
かなり厳しい環境で演奏活動をしていると思う。でも札幌のミュージシャンのミュージシャンシップは僕は大好きだ

東京のローカルルール、シンガーに対してはカラオケ的伴奏に徹すること、というのがあると思う。刹那的に仕事としてその現場をこなし、音楽のシーン全体のことなどどうでもよいという利己的な発想、金もらえるからまあいいか。
僕は不誠実で不親切だと思う。
残念なことに、一流の、インストルメントにおいては僕ですら聞きに行きたいなと思うほどのピアニストですら、そのような不誠実な伴奏に徹する。

そして、多くの、アンサンブル出来ていないことに気付いてすらいない東京のジャズシンガーは、僕のように、ちゃんとキャッチボールをしようよ、というピアニストの伴奏を、不誠実で不親切だというのだ。

多くを語ったが、一番悪いのは、シンガー自身の志が低すぎることだ。
東京のジャズシンガーは、アンサンブル出来ていないこと、どころか、自分たちが志が低いんだ、ということにすら気付いていない。そのことが何よりも一番の害悪だ。

僕とたまにやりたがるシンガーはいるが、長続きしたためしがない。
最初は少ししんどくても、僕とやり続けることが出来たら、少なくとも一年はやり続けることが出来たらなあ、と僕はいつも思いながら、去っていく、東京の、全国的に見てもダントツにへたくそなジャズシンガーの背中を見送っているのだ。












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  1. 2015/10/21(水) 15:52:40|
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音楽家が音楽家を判断する基準

僕は、音楽的な価値基準で音楽家として判断され、音楽家を判断して、その音楽家を共演者として選んだり、選ばれたりして、いたい。
ところが現在の音楽シーン(他のジャンルの音楽界は解らないけど、多かれ少なかれ同じであろう)に於いては、音楽的な価値基準、以外の価値基準により、音楽家が音楽家を判断して、共演者として選んだり、選ばれたりしている事が多い。
多いというレベルではなく、殆どの音楽家は、それ以外の価値基準で共演者を選択していると言っていい。
ぼくはそのことをここに暴露する。

その価値基準とは、その人と共演することにより何らかのメリットが生じるか否か(音楽的なメリット以外の)、という価値基準である。
例えば、その共演者が音楽的にはあまり好きではないとは思いつつ、集客力があるからその共演者を選ぶ、とか、お客さんの耳障りがいいからその人を選ぶとか、見た目的に派手な演奏をするか否かとか。

リスナーが様々な価値を持って聞きにいく事は構わないと思う。
例えば、見た目的に美しい女性のヴァイオリン奏者を、音楽的な価値以外を求め聞きにいく事はあってもいいと思う。
だが、音楽家が、音楽の品質、以外のモチーフで音楽家を選択するのは、音楽家としての敗北であると、いいたい。

先日も、若く極めて才能のあるミュージシャンが、選択したミュージシャンが、あまりにも不釣り合いで疑問に思ったら、その人は素直に集客力の問題である、と答えた。そこまではっきりと素直に答える人も珍しい。

僕は過去、尊敬する音楽家に認められるような演奏家になることを努力したし、才能と技術と音楽性を認められ、共演者として選ばれてきた。
そういった「切磋琢磨」と「音楽家に対する尊敬と畏怖の念」が薄れてきているように思える。
大変危険な事に思える。
お互いに尊敬の念を持たずに、なあなあで、まあまあの、ぱっと聞き悪くない音楽をクリエイトし、それでその場をごまかすコンサートを続けていく。
めんどくさいことを言わずに、仲良しクラブのような演奏会を続けていく。
音楽家はお客に対してのサービスとして演奏するのではない。
作り上げた最高の音楽が、結果としてお客さんにサービスするのだ。主客を転倒してはならない。音楽家が最高の音楽を作り上げる事、以外に腐心してはならないのだ。それは結果として自分の首を絞める事だろう。

何故ならば、現状の音楽界は、資本主義的な価値基準により翻弄されているから。そのことに気付かなければならない。日本のジャズ界等本当に小さなマーケットだが、そんなマーケットですら、いや小さなマーケットであるからこそ翻弄されやすいのかもしれない。
音楽業界が翻弄されているのはまだよい。音楽家自身が翻弄されている事が僕には滑稽に見えてならないのだ。


無論、如何に僕でも、100%の尊敬に値する人としか共演しない訳ではない。そんな人は日本人で数人だし。が、向上心を持つ若者達と切磋琢磨していたいと思っている。
そのためのジャズワークショップであり、中津江をはじめとするMC(ミュージックキャンプ)なのだ。

先述した若者に、僕は君の選択は、君の生き方の問題だ、と答えた。

そういった選択の積み重ねは、その人の「生き様」となる。
演奏が上手いか否か、才能があるかないか、練習をしたか、そういった様々な要素は「生き様」を構成する一要素に過ぎない。
「生き様」は此れ即ち「音楽」だ。音楽そのものなのだ。
自分だけ切磋琢磨していれば、共演者の選択の妥協は関係がない、というようなものではない。
それらの選択の積み重ねが、音楽になるのだ。
  1. 2012/01/12(木) 14:53:15|
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素直力・頑固力

素直という資質は、しばしばいい意味で使われる。
そして、頑固という資質は、悪い意味で使われることが多い。
無論、資質それ自体に善し悪しはないという大原則は、この場合にも当てはまる。

素直とは、受動的な意味合いにおいてのみ好ましい資質となり、頑固は能動的な資質としては、よい資質となり得る。
というより、何かを成そうとした時には、受動的に素直で、能動的に頑固でないと難しいのではないか、と僕は考える。

例えば、人に意見された時に、その意見を受けつけられるかどうか?は、受動的な素直力による。
人からの様々なアドバイスを受け、そして自分はこうして行こう、という目標を定めた時に必要なのは、能動的な頑固力だ。
何があってもそれを貫き通す力の源。
そして、人から受け取ったアドバイスは、ただ素直に受け止めればそれでいい訳ではない。
自分の力で考え、そしてその内容を吟味し、取捨選択し、判断していかなければならない。
それは、戦術的には思考力の範疇だが、戦略的には頑固力の範疇だ。

最近、20代の若者、それも20代前半の若者と接する機会が多くなった。
そういう人たちの中には、受動的にも能動的にも素直な人を見かける場合が多い。
特に男の子に多い。
良く言えば、素直なんだけど、自分に軸がないなあ、という感想を持つ。
これからの生き方で変わるだろうが、アーティストとしての自我に欠けるような印象をどうしても持ってしまう。

では、受動的に頑固で、能動的に素直な人とはどういう人なのか?
人からの意見は受け入れられない。
そして、その言動は、自分の中にあるべき考えの軸に欠け、相手に対する忖度が欠落している。
素直な行動とは、思いつきだけの行動であり、周りにいろんな傷を与えてしまったりする場合もある。
無論、そういったことは演奏上でもよくあることだ。

トランぺッターの山田友和君は、受動的に素直で能動的に頑固な典型的な人だ。
彼に何かアドバイスをしたら、それは全く何の抵抗もなく、彼の中に収まっていく感がある。
受動的に素直でも、頑固に自分の道を歩む力がない人に対しては脆弱さを感じ、アドバイスしにくい部分もある。
素直力は何も人からのアドバイスを受け入れるのみの資質ではない。自らが積極的に何かを得ようとする時にもその資質は発揮される。
彼は去年の中津江ミュージックキャンプに参加した人間の1人だが、参加した人間関係で最も沢山の物を得た人の1人だろう。
僕とも共演する機会が生まれ、そこから人間関係も広がった。伊藤大輔や東かおるとも親交を深め、和田いづみ達九州の人間からも呼ばれることとなった。
それは、ひとえに彼の素直力に起因している、と僕は思う。

固陋(ころう)、という言葉がある。
受動的にも能動的にも頑固になってしまった状態。
そうはならないように自らを戒めていきたいものだ。
  1. 2010/05/08(土) 20:04:46|
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四十代をおもう

30代は一人前一年生になった世代だった。
様々な謎が解決し、解らなかったことがどんどん解りだした。
20代に「間違い」でしかなかったことは、「違い」となり、一応は個性となった。
そして、自らの生き方が定まった世代だった。

さて、40代はどうなのだろう??

僕は、摩耗が始まる世代なのではないか、と思う。
30代で一応は定まったその生き方を、継続出来るかどうかが問われだす世代なのだろう。
おそらく、その覚悟を挫く様々な要素があらわれてくるのだろう。
それは、想像よりも高いハードルとなってあらわれてくるのではないかな。
実際、今でも僕の周りの出来事を見ても、色んなトラップが仕掛けられていて、物事が思うように進まないように思えることは数多くある。
だが、物事とは、思うように進むものではないんだ、ということを知っていれば、解決に向けてポジティブに考えることが出来ると思う。
思い通りにならないとき、妥協したり、諦めたりするのではなく、調和する感性が問われるのではないかな。
それは20代、30代には問われなかった感性だろう。
戦術的な観点ではなく、戦略的な観点で見て、物事や生き方を推進させていく必要性が増えるだろう。
局部的にうまく行かなかった事柄を、受け入れて、全体像として完結させていく。
そうやって、40代の自分の覚悟を貫くことが出来て、それを完結出来たとすれば、それは一生続けることが出来るのではないかな。
そして、その先は自らの芸道の熟成なのだろう。
そう想像している。
  1. 2010/05/08(土) 19:54:41|
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工業製品、工芸品について少し考えてみた

最近松任谷由実のベストアルバムを友達に借りて聞いてみた。
コードの構築の緻密さと丁寧さに驚く。
海へ、という曲のさびのコード。
KeyはB(Hdur)で、コード進行が|E△7|B/E♭|D♭m7 G♭7|B|
という、当たり前のコード進行。
が、よく内声の動きを観察してみると、一小節目がこんな動き
|G♭/E D♭m/E Caug/E D♭m/E |
2小節目もこれにシーケンスする動き。
3小節目にも一拍ずつ内声のG G♯ A B♭という動きを作ることにより、微妙なコードの浮遊感を作っている。
まず、現代のお粗末なポップスではあり得ないコードの動き。
ポップスがアートかどうかと言われれば疑問だが、クラフトではあると思う。
そういう意味で、とても丁寧に作られた作品だと思う。
昔のものは何故かいいものが多い。
何故かと考えてみる。
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  1. 2010/03/20(土) 16:08:42|
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本物、偽物、限りなく本物の香りがする偽物

芸術品と工芸品の間には何の区別も存在しない。
芸術品だろうが工芸品だろうがそこにあるのはそれらが、本物か、偽物か、限りなく本物の香りがする偽物か、だけである。
最も一般からありがたがられるのは、限りなく本物の香りのする偽物、だ。
そして偽物には偽物の用途がある。
だが、本物に触れる為には、触れる側にもそれなりの覚悟を要求される。
例えば、本物の茶碗を手に入れる為には目の球が飛び出る程の金銭が必要となる。
ゆえに、最もポピュラリティーを得られないものは、本物だ
ゆえに、本物を作り、極める道は、茨の道である
本物を作る為には、それを一生かけて追い求める覚悟が必要である。
むろんそれは並大抵のことではない。
一度は覚悟を決めた作家が、その覚悟を全うすることが出来ずに終わることもよくある。
その覚悟を、一生かけて全うすることが出来た者だけが、後世にその名と作品を残すことが出来るのだ。
ところが偽物、及び本物の香りがする偽物に従事する作家は、後世に名を残すことよりも、現世での自分の生活の福祉の充実のほうに興味がある反面、本物の作家は、自らの生活の福祉はおろか、後世に名を残すことすら興味の範疇から外れているものなのだ。
本物は、本物を創作することと、それに対する努力にしか興味がないものである。
稀に、本物を作る人でポピュラリティーを得、現世での生活向上に成功する人がいる。
それは、その人が本物だからではない。
それは、ただの偶然の結果に過ぎない。
何かを創作する、ということは、そんなものなのだ。

ところで、創作された物に触れる側としては、その三種類の区別をどうつけたらよいのかが解りづらい。
特に、本物と、限りなく本物の香りのする偽物は、区別が付きづらい。
過去の物は歴史の淘汰を経ているので、本物しか残っていない確立は高いが、現世においてはそれらは混沌と存在するからだ。
ゆえに、その作品が、歴史の淘汰を経て未来に生き残る物なのかどうか、という観点で触れてみる習慣をつけることだ。
そうすれば、自ずと眼力も育とう、というものだ。
モーツァルトの時代には、モーツァルト以外にも、たくさんの、本物によく似た宮廷音楽家や、ただの楽隊も、数多く存在したのだから。
無論、僕は、本物を一生かけて追求する。

共に歩む者、募集中。
  1. 2009/11/22(日) 00:03:55|
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人生に負け癖を付けるな

負け癖を付けるな

生きていると大小様々な困難が行く手を遮る時がある。
その困難に向き合い、逃げ出さずに乗り越えようとするか否か、か、が人としての成長に大きく関わって来る。
逃げ出すということは、その困難に負ける、ということだ。
一度の「負け」はほんの小さな負けに過ぎないかもしれない。
ただ、負けを積み重ねていくと、負け癖がついて来る。
負け方にも色々ある。なかったことにしたり、先送りにし続けたり、人のせいにしたり、判断を他人に委ねたり、他人にたよったり。

つまり、勝ち癖を付ける為には、困難を正面から見据え、克服する努力をし、自分で責任を取り、人に頼らずに、自分の力で判断すればいい。
そうして克ち得たものは、負けて他人から得たものと全く価値が異なって来る。

ピアニストの大友君と少しメールのやりとりをしていて、彼の音楽上の悩みの話になったことがある。
ぼくは回答に至らしめるような、ちょっとしたヒントを返信した。
彼は返信で、ありがとう、その先は自分で考えます、と書いてきた。
彼は勝ち癖のついている人間なのだ。
大事な判断を、他人に委ねてはいけないことを、知っている人間なのだ。

あるシンガーとライブをした時の話。
その曲にしては彼女の出したテンポは速すぎるように感じたが、そのテンポでイントロを出した。
楽曲にはやはりその曲にふさわしいテンポというものが、ある程度は存在する。若いシンガーは、そこを意識せず、なんとなくテンポを出すことがよくある。
が、一流の人達は、あえて、全く違うテンポでやってみて自分だけのその曲、という世界を作り出すのだ。
ゆえに僕は、その人の工夫と信じてそのテンポでイントロを出したのだ。
案の定、ステージで歌えなくなった彼女は、ステージ上で、曲の途中で、こんなんじゃ歌えない、といって拗ねて歌うのをやめたのだ。
自らの未熟を僕のせいにして、自らのミスを聞いているお客さんに甘えたのだ。
負け癖のついている人は、極端な場合、このような行動に出る。

どんなに偉大な先生に師事しようが、どんな上等な楽器を購入しようが、どんなにいい音楽体験をしようが、己に克たなければ意味がないのだ。

逆に、独学でも、エレピしかなくても、ステレオはカセットデッキしかなくても(又古い言い回しだが)己に克つことが出来れば道は開けるのだ。

指導者や、伴奏者も悪いのだ。
ぼくは、それらの立場を取ることもある。今後は中津江MCや、各地で起こっていくであろう、僕の立てる新たな塔、により、その機会はどんどん増えてくることだろう。http://nakamuranokangae.blog55.fc2.com/blog-entry-45.html
野村克也氏の指導の方針として、無視、賞賛、叱咤、の三段階がある、という。
心に負けた気持を持ってワークショップに来る人に対して、僕は述べる言葉をもたない。
その人が、己に向き合う覚悟を持ったとき、僕は褒める。
そして、その人が、それに向けて進み始めたとき、僕は叱咤し、激励するのだ。
負けている人間に、手取り足取り教えてあげることは、その人のためにならないばかりか、負け癖を増長させてしまうのみだ。


伊藤大輔が、中津江MCで参加シンガーに、僕とのDUOでの練習の時にこういった。
中村真を、車だと思って乗りこなしてみなよ、と。
僕は、まあまあ性能のいい車なのだ。400kmぐらいは出るし、フルブレーキングをかけてもハンドルがぶれることなく制動出来る。足回りも悪くないので峠も楽しく走れる。
だけど、ドアを開けてキーを差し込み、エンジンをかけ、アクセルを踏み、ブレーキをかけ、ハンドルを操作しないと動かせないのだ。
世の伴奏者の多くは、本当に多くは、ドアを開けてあげキーを差し込んであげ、エンジンをかけてあげ、アクセルを踏んであげ、ブレーキをかけてあげ、いかにもその人が運転しているかのように演出する。
これではシンガーは育たない。
しかし、こういう伴奏者が、伴奏の上手い人、といわれているのだ。


僕自身の話を少しします。
僕はずっと自分はピアノはとてつもなくへたくそなんだ、と思ってました。
ゆえに技術的に向上する練習をずっとやっていました。
ある日、通常の練習をしていて、自らの指にある、変な癖に気付きました。
それは、ビルでいうなら、一階にある構造上の欠陥、のようなものでした。
僕は気付きました。僕はへたくそなんじゃなくて、一階に欠陥を抱えたまま、100階までビルを建ててしまったんだ、ということに。
それから、僕は練習方法を変えました。
101階の工事に取りかかるのではなく、バイエルの赤本の10番までのような練習から始めました。
一階の修繕です。
国語でいうなら、平仮名の書き順からやり直すようなものです。
そうすることによって、100階まで立てたビルは少しずつ安定して来ました。
自分で、自分に気付き、一見遠回りに見える努力を、そこから逃げずにやり直す。


僕が、今まで一度も負けなかった訳ではない。困難から逃げ出したこともある。己を甘やかしたことも何度もある。
不満足な演奏を、共演者のせいにしたくなることもある。
だけど、そこで、もし僕が世界一のピアニストなら、共演者が誰であれ、満足のいく演奏をすることが出来るだろうと考えるのだ。
そう考えると、自ずと自らの進むべき道も見えて来る。
負けてては、その道を進むことは出来ないのだ。
志を高く持っているならば、負けている暇はないのだ。
それだけのことだ。










  1. 2009/11/17(火) 16:44:09|
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謙虚であるということ

謙虚であるということ。

謙虚であるということと、へりくだるということは全く違う。
謙虚であるということは、ありのままの自分を受け入れる、見つめる、ということである。
ぼくは世界一のピアニストになりたいと思っている。
こういう事をいうと、謙虚ではないと思う人が多い。
ぼくは、そう思わない人のほうが謙虚ではないと思っている。
少なくともホロヴィツもハンクジョーンズもぼくも、CDの値段はほぼ同じだ。
それを買って聞いてくれる人に対して、ぼくがその人達と同じ志を持っていないとすれば、それを買ってくれた人に対して謙虚である、といえるのか?


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  1. 2009/07/05(日) 13:47:00|
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アドバイスの受け方

先輩や先生から、様々なアドバイスを受ける事があると思います。
アドバイスをしてくれる人は、大抵の場合その人に対して好意を持って言ってくれていますが、アドバイザーの力量や、意図によっては、アドバイスが功を奏さないばかりか、有害にすらなる場合もあります。
基本的に、人のアドバイスは半分に聞いたらよろしい。
僕は、大学一年生の時に、はじめてセッションにいったジャズ喫茶のマスターから受けたアドバイスが的外れであった事から、そのことを学びました。
必ずしも人が正しい事を言ってくれるとは限らない。また、正しい事であったとしても、そのことがその人に取って正しいかどうかはわからないのです。
最終的に、自分の感性以外の事を表現する事は無理だから。

では、アドバイスをどう受ければいいのか、ということを考えてみましょう。
アドバイスには大きくわけて二つあると、僕には思います。

戦略的アドバイスと、戦術的アドバイスです。
戦略とは、どういう目的で戦うか、で、戦術は、いかにして戦うか、です。
つまり、戦争でいうと、第二次大戦の目的を定めた東条英機は戦略家で、ミッドウェーで采配した山本五十六は戦術家です。







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  1. 2009/03/02(月) 16:39:41|
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フットワークを軽く持とう

フットワークの軽さ。私の数少ない長所である。
僕は、大阪での仕事の「ついで」に北海道に登山にいく人間ですが、それが、いかなる形あれ、損になったことは一度もない。
普通に考えても、得るものは出不精の人間と比べて多いに決まっている。

アーティストとして、何かを感受することに対して、どん欲であることはとても大事なことだ。
それが人によっては山登りであったり、自転車の旅であったり、動物園にいくことであったり、本を読むことであったり、美味しいものを食べにいくことであったり、場合によってはパチンコを打つことである人もいるだろう。勿論、練習に対しても。

それが何であってもよい。それに対してどん欲でいよう。

また、フットワークの軽さは、なにも外向きなものにだけ限定されるものではない。
内向きなことに対してのフットワークの軽さも大事だ。
例えば、人との関わり合いに対してのフットワークの軽さ。
音楽を作るということは、人とのかかわり合いを無視しては成り立たないのだから。
人と向き合うことは大事だ。自分の意見を述べることに対して億劫でいてはいけない。
対人関係をめんどくさがっていては、得るものは減る一方だ。
ぼくは軽快に、誰とでも友達になる。軽薄といってもいいかもしれないぐらい。
全然知らない人の紹介の、全然知らない人の家に泊まったりすることは、僕にとって何の苦でもないどころか、楽しみでしかない。
そうやって、自分が一緒に音楽をする人を、音楽をする場所を、確保していくのだ。

そうして、自分にとっての日本がどんどん狭くなってきた。
それとともに、自分の音楽も広がり、友達も増え、環境はどんどん自分にとって望ましいものに変わっていった。

人生が行き詰まっている人に例外無く共通していることは、出不精であることだ。

何かを成し得ている人の口癖が、「面倒くさい」という言葉でないことだけは、確かなことだろう。
その言葉を使わないようにするところからはじめてみるといい。

少なくとも、決まりきった日常からの脱却により、気持がリフレッシュする。
これだけでも僕は演奏が良くなるのだ。

ぼくの軽いフットワークはそのうち海外にも及ぶかもしれない。
今はヨーロッパを旅したくて仕方ない。勿論チャリでね。
  1. 2008/09/25(木) 12:28:02|
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プロとは

やりたいことをやるのがプロだ、いや、やりたくないこともやるのがプロだ、こういう議論はよく耳にします。

僕は、やるべきことをやるのがプロだと思ってます。

やりたいことをやるのはアマチュアです。やりたくないことをやるのはバンドマンです。
やるべきことをやる人のことをアーティストといいます。

やるべきこととは、自分の芸のために必要なことです。
必ずしも演奏とは限りません。

プロになると、やるべきこと、は、やりたいことなはずです。

また、プロになると、やりたくなくても、やるべきこともあります。

しかしそれは、やるべきことなので、突き詰めるとやりたいこと、ということになります。

やるべきことは多い。

それを見つけていくのがプロです。
  1. 2007/02/16(金) 01:12:41|
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僕の音楽が難解だと感じられる方々へ

僕のピアノがよく理解できないとおっしゃる方へ。
最近、僕のピアノは好きなののだが、もっと解ればもっと楽しいに違いない。だから、ジャズ理論を勉強してみようと思う、とおっしゃる方がいました。


残念ながら,ジャズ理論を学んでも僕のピアノは理解できません。


[僕の音楽が難解だと感じられる方々へ]の続きを読む
  1. 2006/03/02(木) 01:04:11|
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感受性について 

1)感受性について。

音楽、その他の芸術を見聞きし、楽しむ為に知識は必要ありません。 必要なのは感受性です。 では感受性とは何か? 美しいものを美しいと感じれる能力の事です。 または、美しいものを見て、何かを感じ取る能力の事です。
美しい音楽を聞いて美しいと思えない人は音楽を聞く能力はありません。あたりまえの話ですが、そういう人たちは音楽を聞きたいと思わないでしょうし。 [感受性について ]の続きを読む
  1. 2006/03/02(木) 00:44:22|
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