中村の考え

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音楽を体験するという事。youtube等について。音楽をするという事。

今の二十代ぐらいの若いミュージシャンには上手いプレイヤーがたくさんいる。
とりあえず、非のつけどころがないプレイヤーがたくさんいる。
ところが、そういうプレイヤーの多くがぼくには無個性に感じられる。そのプレイヤーの「顔」が見えてこない。
演奏が終わった後に印象が残らない。

そのことを某サックス奏者と話したのだが、その人も同様の感想を持っていた。そして彼は、現在はyoutubeや配信により音楽を簡単に手に入れることが出来ることが原因ではないか?と言った。
ぼくはそれをきっかけに色々と考えてみた。その考えの話を以下に記す。

音楽を聴く、ということは、音楽体験の中で最も重要な要素の一つであると思う。

自分自身を振り返ってみよう。ぼくは、1972年生まれの44歳だが、中学2年生ぐらいの頃親にCDプレイヤーを購入してもらい、色々なCDを、当時はCDも値段が高く、そうそう買えるものではなったこともあり、比喩ではあるが、一つのCDを擦り切れるほど聞いたものだ。
バルトーク、ストラヴィンスキー、ラヴェル、ドビュッシー、等、近現代音楽に傾倒していたぼくは、何度も何度も繰り返し、春の祭典や、弦チェレ、クープランの墓などを、暗唱できるほどに聞きこんだものだ。

高校に入り、親が持っていたウォークマンの初号機を、親父がオープンリールからカセットにダビングした、ビルエバンスの「Bill Evans Album」等を、100回以上、いや、500回くらい聞いたかもしれない。回転数がおかしかったので、ぼくは大学に入った時に、初めてセッションをしたときに、酒とバラの日々を半音高く覚えていて、F#で出て笑われたものだ。
そういった、「擦り切れるほど」音楽を聴きこむことは、「音楽体験」足り得るだろう。

ところが、現在においては、簡単に音楽を手にすることが出来る。情報を得る方法も飛躍的に簡単になっている。
酒とバラの日々を「調べて」いろんなアーティストのものを「聞き比べる」ことも容易になった。
とても便利な世の中である。
多くの人々が勘違いしていることの一つに、「情報の蓄積こそが思考である」ということがある。

情報の蓄積は、思考ではない。情報は、思考するための道具である。
また、勉強は思考ではない。勉強は、考える力を養うトレーニングだ。勉強すること、が考えること、ではない。
音楽を、たくさん集積することは、情報を蓄積することと似ている。というか、同じだ。
情報をたくさん蓄積したところで、思考しないと意味がない。


では現在の環境は、音楽を「思考」する上において望ましい状況ではないのだろうか??
ぼくはそうは思わない。

重要なことは、環境ではない。環境をいかに自分にとって望ましい状況とするか、だ。
僕はCDの世代だが、その前はLPの時代であり、さらにその前はSPの時代である。音楽が何らかのソフトにより記録できるようになってたかが100年程度。それ以前は音楽に触れる為には、生の演奏を聴きに行く以外の手段がなかった。
音楽を学ぶという上において、その環境は不利であるといえる。だが、そのことによりモーツァルトやベートーベンが、現代の作曲家に比べて劣る、などということはあり得ない。
つまり人は、現代に生きることしかできない。そして、現代の環境から逃れることはできない。いや、逃れるためには相当な努力が必要となるだろう。その話はさておこう。

人は、与えられた環境を、自分にとって望ましい状況として、受け止める必要がある。
youtube等で音楽情報を得られやすい状況を、自分にとって望ましい環境として、受け止める必要があるのだ。

言いかえれば、youtube等で音楽情報を得られやすい状況であることと、若い音楽家たちが音楽を体験出来ていないことは、別問題なのだ。
更に言うと、情報を収集しやすい現在は、実は音楽のリアル体験をしずらい環境にあるといえるが、しかしそれは、若い音楽家たちが環境に負けているだけなのだ。

若いミュージシャンの演奏のうまさとは、蓄積された音楽の「かけら」を手先で器用に組み合わせられたもの、にすぎない。
故に僕の印象には残らない。
若いミュージシャンは、蓄積された情報を、上手く「学習」しているのだ。
重ねて言うが、勉強は、思考ではない。
どんなにたくさん音楽を聞いて、練習して、上手くなってもそれは音楽ではない。
それは、音楽を始めるスタート地点に立ったに過ぎない。そのことをまず知る必要がある。


では音楽をするという事はどういう事なのか?
確信した自分自身にしかない価値を持つことだ。自分が確信している音を奏でることだ。
人から借りてきたものではない、自分自身の魂から溢れ出てくる、本当の音を奏でることだ。
練習や学習、技術を身につけることは、それを獲得するための方便に過ぎない。
僕が今述べていることを一体何のことだろう?そう思った人は、音楽をする資格がない人だと思えばいい。

確信している価値というもの、それは完成することではない。僕は何一つ完成していない。むしろ完成したと思った時点で終わりだ。
自分が音を出すとき、その音に対して、陶酔しきる、狂い切ること。それが確信しているという事だと思うのだ。





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  1. 2016/06/29(水) 17:59:38|
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オリジナルを書くことの良い面と、オリジナルを演奏することの弊害と。

ジャズやクラシックの演奏家がオリジナルを書くことは、良いことだと思う。
ジャズやクラシックは、スタンダードや元々ある曲を演奏することが多いが、それはつまり、他人の音楽を使って、自分の音楽を貫徹させるという作業である。これは難しい。果てしなく困難な作業の先に存在すると思う。
かくいう僕も、クラシックの曲を演奏すると、なかなかその曲が自分の音楽にならないことのジレンマを感じる、
オリジナルを書き、そしてそれを演奏することは、程度の高低は兎も角として、それは紛れもなく自分の音楽以外の何物でもない。そしてそういったオリジナルの世界を貫徹させることにより、ジャズやクラシックのような、スタンダードがある音楽に対しても、自分の世界を貫徹することが容易となるだろう。

ある女性シンガーが、カナダに遊学中、恋人のミュージシャンに、英語の曲を歌うな、といわれたらしい。理由は、日本語なまりの英語はチャーミングではないから、ということだった。アントニオカルロスジョビンのポルトガル語なまりの英語は、チャーミングだが、しかし日本語のなまりの英語は美しくない。という理由だった。
僕は違うと思った。ポルトガル語なまりの英語がチャーミングなのではなく、ジョビン自身が、ボサノバという音楽をまぎれもなく創作し、自らの書く曲がスタンダード足り得るほどの「シンガーソングライター」である。自らのオリジナルの世界を貫徹している人であるからこそ、なまりがあろうが関係なくチャーミングな歌となり得るのだ、と僕は思った。

小泉やよいはシンガーソングライターだが、ジャズにもブラジル音楽にも興味を示しチャレンジする。はっきり言って、それを専門にやっているシンガーたちの平均レベルよりも遥かに高いクオリティーでそれらを歌う。
それは小泉やよいという個人の才能が優れていることはもちろんのことだが、彼女は、自分の作品を作曲作詞し歌うということにおいて貫徹した世界観がある。故に他のジャンルの音楽を演奏した時にも、自分の世界の中でその音楽の世界観に重ね合わすことが出来るのだと僕は思う。

オリジナルを書いて演奏すれば、自分の世界観を即座に貫徹できる訳ではない。巷に溢れるシンガーソングライターの多くは感受性過多感性過小の聞くに堪えないものだ。
だが、それを書くことにより、自らの世界観を貫徹する練習にはなるだろう。それは、ジャズやクラシックを演奏して自らの世界を作り上げるよりは、遠回りなようで、近道だと僕は思う。


そして、僕は滅多にオリジナルを書かないし、滅多に演奏もしない。
新しい僕のトリオのアルバムには、他人のオリジナルはあっても、自分の曲は一曲も収録していない。
なぜか?僕は少なくともジャズという音楽において最も重要なことは、共演者との対等性と即興感であると考えている。
対等でなければ面白くないし、即興でなければスリルがない。
僕は、共演者に、自分の世界を再現するための道具とするをよしとしない。あくまで共演者の世界観に僕の世界観を重ね合わせたい。その想いで僕は演奏している。

オリジナルを持ち込めば、音楽の世界が公平でなくなる。自らの頭の中でイメージされたものをひとまずは再現してもらう。そして、その曲を、共演者が作曲者と同じぐらいに理解し、自由に演奏できるようになるには、膨大な時間がかかるだろう。
僕はスタンダードを演奏する意味はそのようなところにあると思っている。
中村新太郎には中村新太郎の枯れ葉が、芳垣安洋には芳垣安洋の枯れ葉があり、それらを持ち寄って、その価値観や感覚を重ね合わしていきたい。それが僕の考える即興であり対等性なのだ。
オリジナルを演奏することで、そのような感覚を得ることは難しい。

むろん、オリジナルを演奏する人の多くは、自分の曲を自由に演奏してほしいと願っているだろう。だが、僕は他人のオリジナルで自由に演奏できることは稀だし、実際に自分の解釈を重ね合わせたときに、作曲者はいい顔をしないことが多い。
作曲者は心のどこかで必ず自分の曲を自分のイメージ通りに演奏してほしいと思っている。
それが悪いことであると言っているのではない。ただ、僕の思っている即興感と対等性は、オリジナルを演奏することで確実に損なわれるということだ。
とはいえ、僕は他人のオリジナルを演奏することが嫌いではない。それは僕にとってチャレンジングなことではある。

このようことを意識した上で、オリジナルを持ち込んだり、オリジナルを書いてみたらいかがだろうか?


  1. 2015/11/08(日) 13:56:53|
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音程感について

音程、といっても、ピッチのことではない。インターバルのことだ。
外声を司る楽器、ほぼ全ての楽器は外声を司りますが、において、最も重要なことは、外声における音程感だ。
音程には12種類ある。
完全一度から長七度まで。完全一度、短二度、長二度、短三度、長三度、完全四度、増四度、完全五度、短六度、長六度、短七度、長七度。
これらの音程を操ってルート音との適度な緊張感と弛緩を作っていくのだ。
ある程度の既成のフレーズは、音程的にも完成された美しい流れを持つものが多い。
そういったものをなぞっている分に於いては、そこまで意識しなくても、インスタントにではあるが、そこそこいい音程の演奏をすることが出来る。
ところが、コード感から外れていくような演奏や、完全無調の演奏や、インプロヴィゼーションの世界に突入したら、そこはなんでもありの世界。音程感を意識出来るかどうかがとても重要になってくる。

音程を三種類に分類してみた。
安定音程、通常音程、緊張音程だ。
安定音程 完全一度、完全四度、完全五度
通常音程 短三度、長三度、短六度、長六度
緊張音程 短二度、長二度、増四度、長短七度

まず最初に避けなければならないのは、安定音程を唐突に演奏の中で出すことだ。
つまり、ルート音に対して安定音程を軸としたフレージングは避けなければならない。
非常に平べったい音楽になってしまう。安定音程は、音楽が安定したときに意味を成す。例えば完全に終わりのシーンであるとか、音楽の中での半終止的な意味合いを持たせたいとき等。それ以外は避けた方がよい音程。
逆に、トップのメロディーを司る楽器の人の音楽のベクトルが、次安定音程を軸としたフレージングを目指しているように感じた時は、ボトムのメロディーを司っている楽器は、その音程の行き先を予測、先回りして通常音程や緊張音程を保つようなラインを構築していく。
ところが、多くのベーシストは、平気で完全8度をぶつけて来たりする。メロディーの行き着く先を予想していない、というよりも、より良い音程をトップの音と構築していく、という概念が欠落している。

僕は趣味レベルでですが、ベースを演奏することがある。その時に、つまらなさを感じる共演者は大概音程が悪い。安定音程を基軸としたメロディー構成をしているのだ。
音程感について、考えてみたこともないプレイヤーは、予想外に多い。

音程感は、フレーズを覚えることよりも遥かに重要なことなのだ。
フレーズを紡ぐというよりは、より良い、よりふさわしく即した音程を構築していく、紡いでいく、といった感覚をもつことが重要なのだ。

そして更に高いレベルのことを言うと、完全1度と完全8度は厳密に言えば違う。
僕の中で音程、というか、音世界は、張り巡らされた蜘蛛の巣のようにその中心からの距離感を持っている。それはペンタトニックとコンビネーションディミニッシュのような秩序的な音の羅列により、模様づけられている。
中心との距離は永遠に変化し続けていく。離れていくことが可能なのだ。15thというテンションは存在する。
そのような音感覚を共有して、即興的に音を紡いでいける共演者は数少ない。
  1. 2012/11/10(土) 13:17:48|
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芸術家としての型を持たないこと

ある「やりかた」のようなものを身につけてしまうと、それを幾らでも再生産出来るようになってくる。
そのときに、その身についた「やりかた」を勇気を持って捨てることがその後の進歩に大きな影響を与える。
僕のキャリアの最初の10年は無我夢中であがき続けてきただけだが、後の10年はある程度身に付いた型を捨て続ける10年だった。
誰でも、10年ぐらいやったら「そこそこ」出来るようになる。一人前になった「ような」気がする。
しかし、そこでその「そこそこ」の「型」を勇気を持って捨てるか否か、が次のステップへ登る為に重要となってくる。
「型」と「スタイル」は似て非なる物だ。
「型」を捨て続けていってもスタイルは自ずと形成される。というよりも、その人のスタイルというものは求めて得るものではない。
自然と生まれてくるものなのだ。
20歳前半のときに、とあるベーシストの先輩に、ええか中村、「チ●ポで弾け」とアドバイスを受けたことがある。
真意は、自分の中の全てをさらけ出し、手を抜かずに演奏しろ、という意味だと思う。
120%の自分の実力を出し続けること、そうすることにより、自分の「量」を増やしていけるのだ。器用な人は20代で、まだなんにも弾けていないくせに型らしきものを持っていて、そこから出ようとせず、一向に進歩しないミュージシャンは多い。そういう輩を僕は一番嫌う。
まあ僕はそんな低レベルの話がしたい訳ではない。
120%で表現することはとても大変なことだった。苦しみだったが、20代のときそれをやり通したおかげで、30代のときは120%の演奏を楽々出来るようになった。
しかし、ふと、型としてち●ぽで演奏出来るようになっただけのことであるのに気付いた。
いつまでもち●ぽで演奏することがナンセンスであることに気付いたのだ。
僕はその型を捨てた。だから、長く僕を知る人はある時期を境に僕の演奏する内容ががらっと変わったことに気付いたと思う。
とことんまで抽象的な演奏に固執した時期もあったし、全く即興をしないような演奏をする時期もあった。
他ジャンルとのコラボレーションを続けた時期もあった。音色にこだわりぬいた時期もあった。
絶えず自分に負荷をかけ続けてきた。ソロの演奏は過酷だ。誰も助けてくれない。だけど僕は10年ぐらいソロの演奏をやり続けてきた。やり方は必ず変えて。
一番ダメなのは、こうやったらリスナーは満足するだろう、と思うことだ。リスナーが求めているだろう型を再現しなければ、と思うことなのだ。
たとえ、リスナーが全く理解出来ないことであったとしても、自分は新しいやり方を披露していく、という、過酷なハードルを自らに課し続けた者だけが、到達出来る地点があるのだ。
というよりも、そういう本気をこそ求めているリスナーも数多いのだよ。
僕はあくまでそこを目指す。
僕は、永久に完成することはないのだ。
  1. 2012/10/13(土) 17:04:30|
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芸に対する確信

宗教的な確信犯が、自らの理念を人に押し付けるのは、それが善かれと思っているからであり、それこそが確信犯というものなのだ。
そして、僕も自分の芸の道を確信している。とはいえ僕に未熟がないわけではない。いやむしろ未熟だらけだといってもいい。
だが、自分が描く理想郷のような美学に対して確信している。
故に、僕は良いものは良い、悪いものは悪い、と自分の意見を述べる。
それが排他的に捉えられることも勿論あるだろう。実際に排他的でないとは自分でも思わない。
僕は自分の理念を、時として人に押し付けているように思われることもあるかもしれない。自らの理念を確信している所以である。
むしろ自らの進むべき芸の道に対して確信的でない者が、まあいいじゃないかと、資本主義社会との折り合いを付けながら、なんとなく人前で音楽なり美術なりを披露すること自体をこそ僕は疑う。
芸術とか表現には、場合によっては反社会的にすらならざるを得ない場合もある。
表現者のモチーフの中に、必ず現状に対する不満感が含まれる。
それは、自らの未熟に対する不満感等も含まれるだろう。
芸術家は、普通の人は気付かないような、様々な矛盾や不公平やアンバランスに対して敏感に感受する。そしてそれを芸術という形で昇華するのだ。
美しいものは美しいものだけで構成されている訳ではないのだ。むしろその反対側の要素無しには成立しないものなのだ。

僕は他人の未熟を批判することはない。
誰だって未熟だ。未熟とは相対的なものではない。自分を高めたいという要求がある限り、絶対的な意味合いで、皆未熟だ。
僕は志低き姿勢を批判するのだ。
まあいいじゃないかと信じてもない歌を歌うことを、まあいいじゃないかと小さく形作ることを、何故なのかと考え続けないことを、自らの美意識で判断しないことを、美を貫徹することを諦めてしまうことを、批判するのだ。
ただ、自称芸術家達の多くは、自分が、まあいいじゃないかと思い、信じてもいない歌を歌っていることや、小さく形作っていることや、考え続けていないことや、自分の美意識で判断していないことや、諦めてしまっていることに、気付いてさえいない。
そんな次元の者達と、同じ次元で音楽家と括られてしまうのが厭だ。
徹頭徹尾自らの美を貫徹させようとし続けられる人間、自らを高めようという姿勢で臨み続けられる人間、美に対して狂い続けられる人はごく少数だ。
だから、僕は挑み続けようとする人を、圧倒的に支持し、応援するのだ。
  1. 2012/05/30(水) 18:44:36|
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アンサンブルに於けるcare と suggestの関係

care と suggestの関係。

アンサンブルは、全てケアとサジェストの関係で成り立っている。
ジャズの複雑なアンサンブルの最も最初の段階を考えてみよう。
一拍目、ベースが音を出す。二拍目、ハイハットが音を出す。
それらが連続していく。
最初のベースの音は、二拍目のハイハットの音をサジェストしていなければならない。
どんなハイハットの音が欲しいのか、どんなタイミングなのか、等。
二拍目のハイハットの音は、その一拍目のベースの音をケアしていなければならない。
そのハイハットの音のタイミングやトーンにより、前のベースの音のタイミングやトーンをベストなものとしてケア出来ている必要がある。
そしてそのハイハットの音は次に再び来るベースの音のタイミングやトーンをサジェストしていなければならない。
もっと感覚的な言葉でいうと、ベースの一拍目に対して、最も「いい感じに」ハイハットを鳴らさなければならない、ということだ。

ところが、これが案外出来ない。全国でワークショップしている中で最もレベルが高いはずの、東川口での東京のプロミュージシャン相手のワークショップでも、この最も最初の段階の受け答えでつまずくミュージシャンが多い。
何がいい感じなのか、という問題に関しては残念ながら感覚的な問題でしかない。これはこういうのがベストなんだ、というふうに言葉では残念ながら答えようがない。いい感じはいい感じであるということでしかない。
出来てない、ということを知って、自分で考えてみるしかない。僕は、出来てない、という指摘と、まぐれ当たりにうまく行ったことの指摘をすることしか、残念ながら出来ない。

そして厄介なことにこのケア~サジェスト、受け答えというものは、ハイハットとベースの関係のみならない。
全ての音は、ケア~サジェストの関係で結びついているのだ。
スネアの1ショットは、ピアノのバッキングの音とケアサジェストの関係にあるし、バスドラムの刻む四分音符は、自分の出しているシンバルレガートの音とケアサジェストの関係にある。サックスのトーンはシンガーの母音の響きとケアサジェストの関係にあるし、ベースラインの高低はピアノのメロディーと対位的にケアサジェストの関係にある。
要するに、全ての音は、お互いにケアしあい、サジェストしあっているのだ。
いいアンサンブルとは、全ての音が有機的に結合している状態である。
有機的な結合は、ケア~サジェストの関係から生まれる。
ケア~サジェストとは、要するに、他の音との意味のある結びつきを作ることにあるのだ。

同時に音がなっていても、メトロノーム的にずれていなくても、無関係な音であれば、有機的な繋がりは生まれないのだ。
有機的な結合は、まず周りの音を聞くことから始まる。
まず最初に聞くべきは、自分の音だ。自分の音は周りの音ではないのではないか?否、自分の音は周りの音だ。自分の出した音は、その空間という「周り」に放たれる最も自分に近い、周りの音なのだ。
本当の意味で自分の出している音のすべてを聞くことが出来ているのか?それを自らに問うてみるところから全ては始まります。案外聞けていないことに気づくはずです。
本当に自分の音を聞くことが出来たなら、自分の音と重なる他人の音も当然聞こえてくるはずです。
自分の音を聞く、ということは、その空間という「周り」に放たれた音を聞くということなのですから。
周りには他人の音も放たれている。そして、それらを「いい感じに」重ねあわせるところから、有機的な結合は生まれる。
いい感じに重ねあわせる、ということが、ケア~サジェスト、ということなのです。

フレーズの組み合わせをアンサンブルと勘違いしているジャズミュージシャンは数多い。
確かにフレーズの組み合わせはケアサジェストの関係で成り立ってはいる。
しかし、それはアンサンブルを構成する全ての要素の1/100にも満たない事柄なのだ。
  1. 2011/11/24(木) 16:16:33|
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音を歌として捉えよう

音感には二種類ある。
絶対音感という、どんな状況でも全ての音の音名が理解できる感覚と、相対音感という、これがドですよ、という基準を与えられた状態でならば、どの音であろうと理解できる感覚に分類出来る。
たまに、自分は微妙に絶対音感がある、という人がいますが、それは絶対音感とはいえません。
絶対音感とは、色が黄色であるとか、茶色であるとか赤であるとか、どんな人にでもある(色盲の人は別でしょうけど)絶対的な感覚と同じで、外しようがない感覚です。

また、音の羅列を捉える概念にも二つある、音名としてとらえる固定ド、音名読みという概念と、階名としてとらえる移動ド、階名読みという概念である。
前者は、調が例えばト長調ならば、スケールはソラシドレミファ♯ソで、後者はいかなる調であれドレミファソラシドです。
ちなみに僕は絶対音感で、固定ドと移動ド両方可能です。


絶対音感者は、左脳の言語中枢で音楽をとらえているようです。
ピアノのドをおすと、「ド」という音を発音しているようにしか聞こえないのです。故に、僕の知る絶対音感所持者の多くに、歌詞が耳に入ってこない、という人は多い。音を言語として捉えているから、それ以外の言語が耳に入ってこないのです。
僕は職業柄、英語の歌の伴奏をすることが多い。必至で英語の歌詞を聞こうと努力して、今では歌詞が耳に入るようになりましたが、未だに日本語の歌の伴奏をしても、歌詞が全く耳に入らない。恥ずかしながらキムサクの曲ですら歌詞は曖昧にしか覚えていない。
絶対音感という、優れた能力にも多くの欠点があるその一つです。
中でも絶対音感の最大の欠点は、ある曲を違う調で演奏するのが困難であることです。
例えば、何も言わずに調を変えて演奏してみます。ベーシストは対応を迫られる。その調がなんであるのか理解するのに時間がかかる相対音感者、ではあるが、調が分かれば後はすらすらと演奏できる。
絶対音感の人は、調が何であるかは即座に理解できるが、その調に対応するのは容易なことではないのだ。
相対音感者は、どの曲でもどの調でも主音をドとして理解しているので、転調が容易なのだ。
だが、絶対音の人は、音名で覚えているので、音名で読み替えなければならないのだ。
例えば、森の熊さんは、ソファ♯ソミ、ミレ♯ミド と、相対音感の人は覚えている。
だが、絶対音感の人は、調をCで覚えているならば、上記した通りだが、もしこの曲をFで覚えていたらドシドラ、ラソ♯ラファ、と覚えているのだ。
つまり、キーを変える度に覚え直さなければならないのだ。
極端なはなし、一つの曲をどの調でも演奏しなければならないとすれば、絶対音の人は、12曲覚えなければならないことになる。
これはめんどくさい。

以上のように、絶対音感や固定ドは一見大変不便なもののように思える。が、そんなことはないのです。
どころか、圧倒的に相対音や移動ドに勝る要素もあるのです。
それは、無調や、頻繁な転調を繰り返す楽曲に対しては、固定ドが圧倒的に有利だからです。
移動ド、つまり階名読みは、安定した調性があって始めて成立する概念であり、調性という基準が無くなれば、そこにあるのは絶対的な基準となる音名のみになるからです。
また、John ColtraneのGiantStepsも、ファ♯レシソシ♭ですが、強引に階名読みすればソソミミソという、意味不明な音の羅列となる。
また、絶対音感は、トーナリティーという基準のないところでの、即興演奏において圧倒的な強みを発揮する。
ホワイトアウトした雪山でも、脳内コンパスに従って道を過たず進むことが出来る動物のようなものです。
道に迷いようがない。
絶対音の人は聞いただけでその音がなんであるか理解できるが、相対音の人は、何か音を出してみてその音との音程の距離でその音がなんであるか判別し、そして次の音を出す、という作業が必要となる。
完全に2手遅れて音を出すしかなくなるのだ。
しかも、これは最も優秀な相対音感を所持している人で、の話である。
また、通常のジャズの演奏においても、調性から外れていくようなシーンは数多くある。そういう場面に対応する能力は圧倒的に絶対音の方が優れている。

と、移動ド固定ドのそれぞれのメリットデメリット、絶対音感相対音感のメリットデメリットを列挙してきたのだが、実際のところ、音をどうとらえているか?は100人いたら100通りの捉え方があると思う。
絶対音感とて、人それぞれ全く違うと思う。
ヘルツが2変わっただけで困るという絶対音感者も少なくない。
自分の音感的な能力は変えようがない。
相対音感の人が、成人して幾ら訓練しても、幼少の頃の訓練により身に付いている絶対音感のような音感は絶対に身に付かない。
また、絶対音が邪魔だ、と思っても、そのオプションを取り外すことは不可能である。
だが、移動ドや固定ドの概念であれば、訓練で身につけることが出来る。
僕自身は、和声学を学ぶ上で、ディグリーネーム(主音を1、属音を5等と数字で音を分類する和声の体系)で解釈することが出来るようになったので、自然に移動ドも可能となった。

そして、移動ドとか固定ドとか、そんなものは音の捉え方の方便に過ぎない。
音というものには元々名前などないのだ。
タララ~ムフフ~デュビデュビ、なんでもいい。そこにあるのは歌、メロディーなのだ。

楽器を使って、自由自在に歌を歌うことが出来れば、それで良いのだ。

そこに到る通過手段として、音名やら階名の概念があるに過ぎない。
音を歌として捉えよう。
  1. 2010/11/10(水) 15:26:17|
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知るということ、見るということ

知る、ということ、そしてものを見る、ということ


脳の中に楽譜を用意して演奏に望む音楽家がいる。
まずそれを取っ払うところから始めるほうがいい。
楽譜に書かれているものは音楽そのものではない。
音楽に関する、ほんの一部の情報が書かれているに過ぎない。
クラシックの楽譜ですら、そこに書かれていることは全てではない。
ぼくは共演者、特にベーシストに曲目を伝えずに演奏を始めることがよくある。
よく知っている曲であるはずなのに演奏出来ないベーシストがたまにいる。
その人達は、曲目を伝えなければ、脳の中の譜面集から譜面を取り出せないのだ。
そういう人達に、この曲知ってるか?というと、覚えてません、と答えが返ってくることがある。
僕は、知ってるのか知らないのか、を訊ねているのだ。

曲を知る、ということはどういうことなのか???
曲のコード進行を覚えることなのか???メロディーを覚えることなのか???
歌詞を覚えることなのか??
勿論それら全て、曲を知る、ことの一つだ。
だが、本当にそれで知ったことになるのか??
コード進行など、楽曲の本質ではなく、表面の一部分であり、場合によっては音楽を奏でる上において何の意味も持たない場合も数多い。
少なくとも、僕のトリオに、コードを覚えているだけでは参加することは出来ない。
キースジャレットのトリオにおいては、メンバーみんな「知っている」曲を演奏しているのだが、ゲーリーピーコックとキースジャレットは「しばしば」全く違うコードを弾いている。
知るということと、覚える、ということは少し違うのだ。
たとえ話を一つ。

[知るということ、見るということ]の続きを読む
  1. 2009/09/01(火) 15:16:02|
  2. D
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音楽が音楽になる為には

音楽家としてプロになるためには才能は不可欠だ。
発明とは99%の努力と1%のインスピレーションだ、というエジソンの言葉がある。
努力を推奨するこの言葉は、言い換えれば、1%のインスピレーションが湧かない人に発明は無理だということでもある。
同様に、才能の全くない人には音楽は出来ない。
ところが、才能があればそれで音楽が出来るのか、というとそうでもない。
たまに、20代前半で突出した才能を開花させる人がいる。
そういう人たちは、凡人が9年かからないと出来ない事を、たった一年で出来てしまう。
だけど、どんな天才だろうと凡人だろうと、等しく10年時間をかけないと出来ない事も存在する。

[音楽が音楽になる為には]の続きを読む
  1. 2009/04/21(火) 12:47:00|
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ぼくが演奏中にしている作業の解説

演奏する時のメンタリティーを整える。これはほんまに難しい事だ。
集中力は、緊張していては絶対に出ない。
リラックスする事は非常に大事なことだ。
どうやってリラックスするか、その方法を各自探らなくてはならない。
お客さんにのまれてはいけない。共演者にものまれてはいけない。
どうすればいいのか?それは各自探方法を探らなければならない。

最初の一音は肝心。
その一音が、音楽として動き出した時から始まるのだ。
自分が出す音に対して、勿論、方向性を考えながら音を放っていくのだが、だが出た音がひとりでに予期せぬ方向に動いていく事もある。その音の動きに忠実に音楽を作っていく。これはつまり、響きを吟味するということでもある。
この、予期せぬ動きに対する反応が即興感に繋がる。
ホロヴィッツが即興的に聞こえるのはそういう理由。

[ぼくが演奏中にしている作業の解説]の続きを読む
  1. 2009/01/08(木) 20:24:24|
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もっと丁寧に音楽を作ろう

若いミュージシャン、特にドラマーや管楽器奏者に多いのだが、音楽の総体の中での流れがギザギザで、あまりにも唐突で雑い演奏が多い。
何故そうなるかというと、多くの場合、彼らは自身の演奏の中で「ジャズ名場面集」の切り貼りをしているのだ。
野球で例えるなら、珍プレー好プレーばかりを見ているようなものだ。
珍プレーや好ブレーだけで一試合は作れない。
内野ゴロ、外野フライ、バント、ヒットエンドラン等の地味な作業の積み重ねの中に、たまにあるホームランや、奪三振が見物なのだ。
ジャズのアルバム一枚聞いても、殆どは地味な作業の連続で、一曲の中のここっ、というポイントにのみ、そういう華やかなシーンがあるのだが、そういう華やかな、耳につくシーンのみを抽出し、羅列しているのが、そういう連中のジャズなのだ。そこには音楽の総体としての美しさはない。
マイルスデイビスバンドフォロワーのヨーロッパの三流バンドのライブCDを聞いたことがある。本物と同じようなシーンは数多く存在するが、整頓の度合いがまるっきり違うのだ。
一つのシーンの中の音の情報が多すぎるのだ。
ドラムはホームラン打って、ベースはヘッドスライディングして、ラッパはホームスチールしている。
そういう人たちと一緒に演奏すると、僕は音を出すことが出来なくなる。ただでさえ混沌としている状態に、更に音を増やせば、混沌の度合いが増すことが明らかだからだ。
弾かない、という選択肢が、まだしもましな選択肢となるような演奏になることが多い。
ソロのとき、頻繁に落ちてくるドラマーからのド派手な「爆撃」を避けながら、ギザギザを補正しつつ、少しずつ丁寧に音楽を進めていかなければならなくなる。
刹那的なかっこいいフレーズを奏でることを考えるのではなく、その音を出した時、そのシーンに与えるベクトルはどうなのか?そしてその音がトータルの音楽の緊張感の中でどういう役割を担うのか、結果、流れはどう移ろっていくのか?ということを考えながら、一つ一つ丁寧に作っていくことをまず心がけなければならないのだ。
そして、その中にあるここ、というポイントが見えた時にド派手なことをやればいいのだ。それは本物の名シーンになる。
こういう話はいささか抽象的すぎると思われ、理解していただけないかもしれないので、具体的なことを少し記してみよう。
安易にユニゾンになるような展開を求めない、終止のフレーズを安易に出さない、相づちを簡単に打たない、音が何オクターブも跳躍すること、又は何オクターブもの音域を行き来するようなことを安易にはしない、フレーズに頼らず、タッチ感や音量の調節によって音楽に参加する術を覚える、自分の出した音と違う方向に音楽が進んだとしたら、ということを絶えず想定しながら音を出す、自分の弾いた音をある程度は覚えておく、又弾く前に頭で音を鳴らしてから弾く、等が大事だ。
つまり、安易にやるな、ということになる。
音数は、なるべく少ないほうがいいのだが、達人は、まず音楽の骨格を理解した上で、たくさんの肉をつけるているから音が煩雑にならないのだ。
達人の演奏には音数が多い場合もままある。が、三流のそれとは、大きく違うのだ。
ぼくはそれを、聞いて理解出来るし、頭でもわかっているが、実際に即興の中で、ジャズに特有のスウィングの流れを損なわず、トータリティーを意識することは、まだ出来ていない。

  1. 2008/10/25(土) 00:18:35|
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オリジナリティーって何?即興演奏って何?

オリジナリティーって、即興て、何?


真の意味でオリジナルであるということは、全くの独自の創作であるということだ。
だが、そんなことは、並大抵の人間に出来ることではない。いや、人間には無理だ。
音楽の神様のみ可能なことなのだ。
それらに最も近いと思われる、バッハやモーツァルトとて、自らの手本となる先達の存在あって成り立っている。


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  1. 2008/07/01(火) 13:17:50|
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音の理~バドミントンと音楽の関係

ジャズのアンサンブルというのは、バドミントンしてるようなもので、僕が打った羽を相手が打ち返して、というラリーが続く感じ。

バドミントンとジャズの違いは、相手をやっつけるためにあるのではなく、お互いのラリーで美しく表現していく。ラリーが一つの作品となるのだ。


バドミントンの羽が自然に落下するように、または打ち方によって落ち方の速度も変わるように、音にも行き着く先、というものがあるり、それを無視しないのが最低源のマナーで、いわば音楽の摂理だ。理論ではない。摂理。羽が引力に逆らえないのと一緒で、音楽もそれには逆らえない。

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  1. 2007/10/12(金) 11:26:35|
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無駄にうまいということ

以前にも似たような事を書いた事があるが、もう十分速く弾けるのに、もっともっと速く弾こうと、いっぱい練習している人がいる。

そんな練習は無駄だ。

どんなに手数音数が多く速く演奏出来ようが、それが音楽に即していない、僕はフィットしている、という言葉をよく使うが、フィットしていなければ、サウンドしないのだ。
サウンドする、というのをミュージシャンはよく使うが、これは調和する、といった意味です。

フィットしていてはじめて技術は生きるのだ。
フィットする為には何が必要か?
様々な要素が複雑に絡み合うが、その中でも重要なのは、タッチだ。
タッチとは何か?音色にイメージを投影するということだ。
鋭い音色だけども、その中にソフトなイメージを投影する事も可能なのだ。
音色と、イメージ、両方の引っ張りあいによってタッチは立体的になる。

強い弱い、という左右だけではなく、深い、浅い、といった空間に立体な音。

音楽の方向性は真逆に進んでいるようでも、フィットしていれば、それは距離になる。
なんせ、みんなが思っているよりも、音楽は、立体的なんだ。

それを知らずに平面的な技術を磨いたところで、音楽家として前進しない。

例えば、僕のトリオでは、全員が、音楽の本来流れるべきところと違うところで演奏して、しかし全員がその本来の流れを見ていて、その流れのところに戻ってくる、という状態になることがある。
その状態で、三人をつなぎ止めておくために必要な事は、距離を見ながら演奏出来るリラクゼーションと、やはりタッチによるフィット感だ。

僕ぐらいの年齢の人、より少し若い人、やり始めて10年ぐらいの人がこの壁にぶち当たる。
がむしゃらに音を出してみても何故か音楽がフィットしない、スムーズに行かない事に、やり始めて10年ぐらいでそろそろ気付き出すのだ。

ちなみに、スムーズに行かない理由は、音楽の流れるべき流れ、を無視して演奏しているからだ。
自分の中で、まだ言語化されるまで整理されていない。言語化され次第書く。

その壁を、既に超えている人、超えようとしている人、超えたいと思っているがその為に必死になって速度の練習をしている人。
色々です。


速く弾く事、という平面の練習から、深く弾く、浅く弾く、という立体の練習に切り替えよう。

そうすれば目の前の扉は開くはずです。
  1. 2007/07/17(火) 12:31:46|
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音楽の軽み

日本人にとって、一音の深み、を表現する事は、意外と簡単な事なのかもしれない。

それよりも、むしろ、軽みを表現する事の方が遥かに苦手なのだ。

僕のいう軽み、とは、軽薄とは似てて非なるものだ。
以前書いた、普通とまあまあの違い、に通じるところがある。
軽いのだが、そこに品格を失わない、というような、軽み。

逆に、西洋人にとって、深みを表現する事は、難しい事なのかもしれない。

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  1. 2007/07/09(月) 10:27:08|
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今現在、僕が陥っている二律背反について

ジャズとは、異なる二つの価値観を高い次元に昇華させる音楽であることはこれまでにも述べてきました。
具体的に、今現在僕が迷い込んでいる袋小路をご紹介したいと思います。

このことに気付いたきっかけは井上淑彦と共演した時の話です。その時ベーシストは中村新太郎で、僕がこのベテラン二人を迎えてセッションライブでした。
淑彦さんは、ライブが終わった時に、「マコッちゃんは本当に自分の世界があるよね~」といいました。 [今現在、僕が陥っている二律背反について]の続きを読む
  1. 2006/12/12(火) 14:08:49|
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多くのベーシストが陥る2パターン

僕は全ての楽器の中でベーシストに最も厳しい。
僕が思う、多くのベーシストが陥りがちな展開を、2つにしぼって分類してみた。


強いスイング感しか出せない人。
解りやすくいえば、チャーネット・モフェットに代表されるような強いスイング感が全てだと思っていて、それに命をかけている。
野球でいえば、パワーヒッタータイプ。パワーヒッターがまだパワーを鍛えようとしているようなもので、それは十分なのだから、違う方面を磨こうとすればいいのに、という清原のようなタイプ。

リズムのテイストもタッチの要素は不可欠で、その場に則したスイング感のコントロールが出来てはじめて音楽になる。
強いスイング感が出せないのはだめだが、それは音楽の一手段に過ぎないことを知らなければいけない。 [多くのベーシストが陥る2パターン]の続きを読む
  1. 2006/12/09(土) 14:17:29|
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音楽の4要素

音楽の3要素という言葉を良く聞く事があります。

リズム、ハーモニー、メロディーですね。

ここに僕は4要素目として「タッチ」というのを加えたいと思います。
音楽においてタッチは重要です。
特に即興音楽においてはそれがコミュニケーションの手段足り得るほど重要です。
特に、音楽をプリミティブな形に置き換えて、そこでアンサンブルをなしていこうとするならば、場合によってはメロディーの要素よりも重要な意味合いを持つ事が多々あります。

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  1. 2006/03/02(木) 01:02:46|
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