中村の考え

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本物、偽物、限りなく本物の香りがする偽物

芸術品と工芸品の間には何の区別も存在しない。
芸術品だろうが工芸品だろうがそこにあるのはそれらが、本物か、偽物か、限りなく本物の香りがする偽物か、だけである。
最も一般からありがたがられるのは、限りなく本物の香りのする偽物、だ。
そして偽物には偽物の用途がある。
だが、本物に触れる為には、触れる側にもそれなりの覚悟を要求される。
例えば、本物の茶碗を手に入れる為には目の球が飛び出る程の金銭が必要となる。
ゆえに、最もポピュラリティーを得られないものは、本物だ
ゆえに、本物を作り、極める道は、茨の道である
本物を作る為には、それを一生かけて追い求める覚悟が必要である。
むろんそれは並大抵のことではない。
一度は覚悟を決めた作家が、その覚悟を全うすることが出来ずに終わることもよくある。
その覚悟を、一生かけて全うすることが出来た者だけが、後世にその名と作品を残すことが出来るのだ。
ところが偽物、及び本物の香りがする偽物に従事する作家は、後世に名を残すことよりも、現世での自分の生活の福祉の充実のほうに興味がある反面、本物の作家は、自らの生活の福祉はおろか、後世に名を残すことすら興味の範疇から外れているものなのだ。
本物は、本物を創作することと、それに対する努力にしか興味がないものである。
稀に、本物を作る人でポピュラリティーを得、現世での生活向上に成功する人がいる。
それは、その人が本物だからではない。
それは、ただの偶然の結果に過ぎない。
何かを創作する、ということは、そんなものなのだ。

ところで、創作された物に触れる側としては、その三種類の区別をどうつけたらよいのかが解りづらい。
特に、本物と、限りなく本物の香りのする偽物は、区別が付きづらい。
過去の物は歴史の淘汰を経ているので、本物しか残っていない確立は高いが、現世においてはそれらは混沌と存在するからだ。
ゆえに、その作品が、歴史の淘汰を経て未来に生き残る物なのかどうか、という観点で触れてみる習慣をつけることだ。
そうすれば、自ずと眼力も育とう、というものだ。
モーツァルトの時代には、モーツァルト以外にも、たくさんの、本物によく似た宮廷音楽家や、ただの楽隊も、数多く存在したのだから。
無論、僕は、本物を一生かけて追求する。

共に歩む者、募集中。
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  1. 2009/11/22(日) 00:03:55|
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人生に負け癖を付けるな

負け癖を付けるな

生きていると大小様々な困難が行く手を遮る時がある。
その困難に向き合い、逃げ出さずに乗り越えようとするか否か、か、が人としての成長に大きく関わって来る。
逃げ出すということは、その困難に負ける、ということだ。
一度の「負け」はほんの小さな負けに過ぎないかもしれない。
ただ、負けを積み重ねていくと、負け癖がついて来る。
負け方にも色々ある。なかったことにしたり、先送りにし続けたり、人のせいにしたり、判断を他人に委ねたり、他人にたよったり。

つまり、勝ち癖を付ける為には、困難を正面から見据え、克服する努力をし、自分で責任を取り、人に頼らずに、自分の力で判断すればいい。
そうして克ち得たものは、負けて他人から得たものと全く価値が異なって来る。

ピアニストの大友君と少しメールのやりとりをしていて、彼の音楽上の悩みの話になったことがある。
ぼくは回答に至らしめるような、ちょっとしたヒントを返信した。
彼は返信で、ありがとう、その先は自分で考えます、と書いてきた。
彼は勝ち癖のついている人間なのだ。
大事な判断を、他人に委ねてはいけないことを、知っている人間なのだ。

あるシンガーとライブをした時の話。
その曲にしては彼女の出したテンポは速すぎるように感じたが、そのテンポでイントロを出した。
楽曲にはやはりその曲にふさわしいテンポというものが、ある程度は存在する。若いシンガーは、そこを意識せず、なんとなくテンポを出すことがよくある。
が、一流の人達は、あえて、全く違うテンポでやってみて自分だけのその曲、という世界を作り出すのだ。
ゆえに僕は、その人の工夫と信じてそのテンポでイントロを出したのだ。
案の定、ステージで歌えなくなった彼女は、ステージ上で、曲の途中で、こんなんじゃ歌えない、といって拗ねて歌うのをやめたのだ。
自らの未熟を僕のせいにして、自らのミスを聞いているお客さんに甘えたのだ。
負け癖のついている人は、極端な場合、このような行動に出る。

どんなに偉大な先生に師事しようが、どんな上等な楽器を購入しようが、どんなにいい音楽体験をしようが、己に克たなければ意味がないのだ。

逆に、独学でも、エレピしかなくても、ステレオはカセットデッキしかなくても(又古い言い回しだが)己に克つことが出来れば道は開けるのだ。

指導者や、伴奏者も悪いのだ。
ぼくは、それらの立場を取ることもある。今後は中津江MCや、各地で起こっていくであろう、僕の立てる新たな塔、により、その機会はどんどん増えてくることだろう。http://nakamuranokangae.blog55.fc2.com/blog-entry-45.html
野村克也氏の指導の方針として、無視、賞賛、叱咤、の三段階がある、という。
心に負けた気持を持ってワークショップに来る人に対して、僕は述べる言葉をもたない。
その人が、己に向き合う覚悟を持ったとき、僕は褒める。
そして、その人が、それに向けて進み始めたとき、僕は叱咤し、激励するのだ。
負けている人間に、手取り足取り教えてあげることは、その人のためにならないばかりか、負け癖を増長させてしまうのみだ。


伊藤大輔が、中津江MCで参加シンガーに、僕とのDUOでの練習の時にこういった。
中村真を、車だと思って乗りこなしてみなよ、と。
僕は、まあまあ性能のいい車なのだ。400kmぐらいは出るし、フルブレーキングをかけてもハンドルがぶれることなく制動出来る。足回りも悪くないので峠も楽しく走れる。
だけど、ドアを開けてキーを差し込み、エンジンをかけ、アクセルを踏み、ブレーキをかけ、ハンドルを操作しないと動かせないのだ。
世の伴奏者の多くは、本当に多くは、ドアを開けてあげキーを差し込んであげ、エンジンをかけてあげ、アクセルを踏んであげ、ブレーキをかけてあげ、いかにもその人が運転しているかのように演出する。
これではシンガーは育たない。
しかし、こういう伴奏者が、伴奏の上手い人、といわれているのだ。


僕自身の話を少しします。
僕はずっと自分はピアノはとてつもなくへたくそなんだ、と思ってました。
ゆえに技術的に向上する練習をずっとやっていました。
ある日、通常の練習をしていて、自らの指にある、変な癖に気付きました。
それは、ビルでいうなら、一階にある構造上の欠陥、のようなものでした。
僕は気付きました。僕はへたくそなんじゃなくて、一階に欠陥を抱えたまま、100階までビルを建ててしまったんだ、ということに。
それから、僕は練習方法を変えました。
101階の工事に取りかかるのではなく、バイエルの赤本の10番までのような練習から始めました。
一階の修繕です。
国語でいうなら、平仮名の書き順からやり直すようなものです。
そうすることによって、100階まで立てたビルは少しずつ安定して来ました。
自分で、自分に気付き、一見遠回りに見える努力を、そこから逃げずにやり直す。


僕が、今まで一度も負けなかった訳ではない。困難から逃げ出したこともある。己を甘やかしたことも何度もある。
不満足な演奏を、共演者のせいにしたくなることもある。
だけど、そこで、もし僕が世界一のピアニストなら、共演者が誰であれ、満足のいく演奏をすることが出来るだろうと考えるのだ。
そう考えると、自ずと自らの進むべき道も見えて来る。
負けてては、その道を進むことは出来ないのだ。
志を高く持っているならば、負けている暇はないのだ。
それだけのことだ。










  1. 2009/11/17(火) 16:44:09|
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