中村の考え

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音楽家が音楽家を判断する基準

僕は、音楽的な価値基準で音楽家として判断され、音楽家を判断して、その音楽家を共演者として選んだり、選ばれたりして、いたい。
ところが現在の音楽シーン(他のジャンルの音楽界は解らないけど、多かれ少なかれ同じであろう)に於いては、音楽的な価値基準、以外の価値基準により、音楽家が音楽家を判断して、共演者として選んだり、選ばれたりしている事が多い。
多いというレベルではなく、殆どの音楽家は、それ以外の価値基準で共演者を選択していると言っていい。
ぼくはそのことをここに暴露する。

その価値基準とは、その人と共演することにより何らかのメリットが生じるか否か(音楽的なメリット以外の)、という価値基準である。
例えば、その共演者が音楽的にはあまり好きではないとは思いつつ、集客力があるからその共演者を選ぶ、とか、お客さんの耳障りがいいからその人を選ぶとか、見た目的に派手な演奏をするか否かとか。

リスナーが様々な価値を持って聞きにいく事は構わないと思う。
例えば、見た目的に美しい女性のヴァイオリン奏者を、音楽的な価値以外を求め聞きにいく事はあってもいいと思う。
だが、音楽家が、音楽の品質、以外のモチーフで音楽家を選択するのは、音楽家としての敗北であると、いいたい。

先日も、若く極めて才能のあるミュージシャンが、選択したミュージシャンが、あまりにも不釣り合いで疑問に思ったら、その人は素直に集客力の問題である、と答えた。そこまではっきりと素直に答える人も珍しい。

僕は過去、尊敬する音楽家に認められるような演奏家になることを努力したし、才能と技術と音楽性を認められ、共演者として選ばれてきた。
そういった「切磋琢磨」と「音楽家に対する尊敬と畏怖の念」が薄れてきているように思える。
大変危険な事に思える。
お互いに尊敬の念を持たずに、なあなあで、まあまあの、ぱっと聞き悪くない音楽をクリエイトし、それでその場をごまかすコンサートを続けていく。
めんどくさいことを言わずに、仲良しクラブのような演奏会を続けていく。
音楽家はお客に対してのサービスとして演奏するのではない。
作り上げた最高の音楽が、結果としてお客さんにサービスするのだ。主客を転倒してはならない。音楽家が最高の音楽を作り上げる事、以外に腐心してはならないのだ。それは結果として自分の首を絞める事だろう。

何故ならば、現状の音楽界は、資本主義的な価値基準により翻弄されているから。そのことに気付かなければならない。日本のジャズ界等本当に小さなマーケットだが、そんなマーケットですら、いや小さなマーケットであるからこそ翻弄されやすいのかもしれない。
音楽業界が翻弄されているのはまだよい。音楽家自身が翻弄されている事が僕には滑稽に見えてならないのだ。


無論、如何に僕でも、100%の尊敬に値する人としか共演しない訳ではない。そんな人は日本人で数人だし。が、向上心を持つ若者達と切磋琢磨していたいと思っている。
そのためのジャズワークショップであり、中津江をはじめとするMC(ミュージックキャンプ)なのだ。

先述した若者に、僕は君の選択は、君の生き方の問題だ、と答えた。

そういった選択の積み重ねは、その人の「生き様」となる。
演奏が上手いか否か、才能があるかないか、練習をしたか、そういった様々な要素は「生き様」を構成する一要素に過ぎない。
「生き様」は此れ即ち「音楽」だ。音楽そのものなのだ。
自分だけ切磋琢磨していれば、共演者の選択の妥協は関係がない、というようなものではない。
それらの選択の積み重ねが、音楽になるのだ。
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  1. 2012/01/12(木) 14:53:15|
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