中村の考え

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芸に対する確信

宗教的な確信犯が、自らの理念を人に押し付けるのは、それが善かれと思っているからであり、それこそが確信犯というものなのだ。
そして、僕も自分の芸の道を確信している。とはいえ僕に未熟がないわけではない。いやむしろ未熟だらけだといってもいい。
だが、自分が描く理想郷のような美学に対して確信している。
故に、僕は良いものは良い、悪いものは悪い、と自分の意見を述べる。
それが排他的に捉えられることも勿論あるだろう。実際に排他的でないとは自分でも思わない。
僕は自分の理念を、時として人に押し付けているように思われることもあるかもしれない。自らの理念を確信している所以である。
むしろ自らの進むべき芸の道に対して確信的でない者が、まあいいじゃないかと、資本主義社会との折り合いを付けながら、なんとなく人前で音楽なり美術なりを披露すること自体をこそ僕は疑う。
芸術とか表現には、場合によっては反社会的にすらならざるを得ない場合もある。
表現者のモチーフの中に、必ず現状に対する不満感が含まれる。
それは、自らの未熟に対する不満感等も含まれるだろう。
芸術家は、普通の人は気付かないような、様々な矛盾や不公平やアンバランスに対して敏感に感受する。そしてそれを芸術という形で昇華するのだ。
美しいものは美しいものだけで構成されている訳ではないのだ。むしろその反対側の要素無しには成立しないものなのだ。

僕は他人の未熟を批判することはない。
誰だって未熟だ。未熟とは相対的なものではない。自分を高めたいという要求がある限り、絶対的な意味合いで、皆未熟だ。
僕は志低き姿勢を批判するのだ。
まあいいじゃないかと信じてもない歌を歌うことを、まあいいじゃないかと小さく形作ることを、何故なのかと考え続けないことを、自らの美意識で判断しないことを、美を貫徹することを諦めてしまうことを、批判するのだ。
ただ、自称芸術家達の多くは、自分が、まあいいじゃないかと思い、信じてもいない歌を歌っていることや、小さく形作っていることや、考え続けていないことや、自分の美意識で判断していないことや、諦めてしまっていることに、気付いてさえいない。
そんな次元の者達と、同じ次元で音楽家と括られてしまうのが厭だ。
徹頭徹尾自らの美を貫徹させようとし続けられる人間、自らを高めようという姿勢で臨み続けられる人間、美に対して狂い続けられる人はごく少数だ。
だから、僕は挑み続けようとする人を、圧倒的に支持し、応援するのだ。
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  1. 2012/05/30(水) 18:44:36|
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