中村の考え

オリジナルを書くことの良い面と、オリジナルを演奏することの弊害と。

ジャズやクラシックの演奏家がオリジナルを書くことは、良いことだと思う。
ジャズやクラシックは、スタンダードや元々ある曲を演奏することが多いが、それはつまり、他人の音楽を使って、自分の音楽を貫徹させるという作業である。これは難しい。果てしなく困難な作業の先に存在すると思う。
かくいう僕も、クラシックの曲を演奏すると、なかなかその曲が自分の音楽にならないことのジレンマを感じる、
オリジナルを書き、そしてそれを演奏することは、程度の高低は兎も角として、それは紛れもなく自分の音楽以外の何物でもない。そしてそういったオリジナルの世界を貫徹させることにより、ジャズやクラシックのような、スタンダードがある音楽に対しても、自分の世界を貫徹することが容易となるだろう。

ある女性シンガーが、カナダに遊学中、恋人のミュージシャンに、英語の曲を歌うな、といわれたらしい。理由は、日本語なまりの英語はチャーミングではないから、ということだった。アントニオカルロスジョビンのポルトガル語なまりの英語は、チャーミングだが、しかし日本語のなまりの英語は美しくない。という理由だった。
僕は違うと思った。ポルトガル語なまりの英語がチャーミングなのではなく、ジョビン自身が、ボサノバという音楽をまぎれもなく創作し、自らの書く曲がスタンダード足り得るほどの「シンガーソングライター」である。自らのオリジナルの世界を貫徹している人であるからこそ、なまりがあろうが関係なくチャーミングな歌となり得るのだ、と僕は思った。

小泉やよいはシンガーソングライターだが、ジャズにもブラジル音楽にも興味を示しチャレンジする。はっきり言って、それを専門にやっているシンガーたちの平均レベルよりも遥かに高いクオリティーでそれらを歌う。
それは小泉やよいという個人の才能が優れていることはもちろんのことだが、彼女は、自分の作品を作曲作詞し歌うということにおいて貫徹した世界観がある。故に他のジャンルの音楽を演奏した時にも、自分の世界の中でその音楽の世界観に重ね合わすことが出来るのだと僕は思う。

オリジナルを書いて演奏すれば、自分の世界観を即座に貫徹できる訳ではない。巷に溢れるシンガーソングライターの多くは感受性過多感性過小の聞くに堪えないものだ。
だが、それを書くことにより、自らの世界観を貫徹する練習にはなるだろう。それは、ジャズやクラシックを演奏して自らの世界を作り上げるよりは、遠回りなようで、近道だと僕は思う。


そして、僕は滅多にオリジナルを書かないし、滅多に演奏もしない。
新しい僕のトリオのアルバムには、他人のオリジナルはあっても、自分の曲は一曲も収録していない。
なぜか?僕は少なくともジャズという音楽において最も重要なことは、共演者との対等性と即興感であると考えている。
対等でなければ面白くないし、即興でなければスリルがない。
僕は、共演者に、自分の世界を再現するための道具とするをよしとしない。あくまで共演者の世界観に僕の世界観を重ね合わせたい。その想いで僕は演奏している。

オリジナルを持ち込めば、音楽の世界が公平でなくなる。自らの頭の中でイメージされたものをひとまずは再現してもらう。そして、その曲を、共演者が作曲者と同じぐらいに理解し、自由に演奏できるようになるには、膨大な時間がかかるだろう。
僕はスタンダードを演奏する意味はそのようなところにあると思っている。
中村新太郎には中村新太郎の枯れ葉が、芳垣安洋には芳垣安洋の枯れ葉があり、それらを持ち寄って、その価値観や感覚を重ね合わしていきたい。それが僕の考える即興であり対等性なのだ。
オリジナルを演奏することで、そのような感覚を得ることは難しい。

むろん、オリジナルを演奏する人の多くは、自分の曲を自由に演奏してほしいと願っているだろう。だが、僕は他人のオリジナルで自由に演奏できることは稀だし、実際に自分の解釈を重ね合わせたときに、作曲者はいい顔をしないことが多い。
作曲者は心のどこかで必ず自分の曲を自分のイメージ通りに演奏してほしいと思っている。
それが悪いことであると言っているのではない。ただ、僕の思っている即興感と対等性は、オリジナルを演奏することで確実に損なわれるということだ。
とはいえ、僕は他人のオリジナルを演奏することが嫌いではない。それは僕にとってチャレンジングなことではある。

このようことを意識した上で、オリジナルを持ち込んだり、オリジナルを書いてみたらいかがだろうか?


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  1. 2015/11/08(日) 13:56:53|
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