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中村の考え

ドラッグと芸術に関しての僕の考えを述べます。

ドラッグが音楽に影響を与えるか、などというつまらない議論が多くなされている。
実にくだらない。
ありがちな話です。内角高めのボールに対して、ここに投げられたらそりゃ打てないわ、とか、外角低めいっぱいのストレート、ここに投げられたら打てないわ、とか、なんでそのボール見逃すんだよ!とか、野球に限らず、羽生さんの妙手とか、過激なクライマーの死であるとか、なんでもいいのですが、専門家の専門的な分野に関して素人が専門的な口出しをすることに対して、猛烈に違和感がある。
その内角のボールが、どれぐらい打ちにくいか、体験したことがないのだからわかるわけがない。
ただ、テレビでの解説者が、そう言っている、という、情報の蓄積、が、自らの経験である、と、錯覚してしまうのだ。
そういうことは音楽の世界でもよくあり、ただのリスナーなのに、プロ一年生の若者などに上から目線で知ったような口を聞く人はたくさんいる。
人は、自分以上の人間の、本当の意味での感覚を、本当の意味で知ることは不可能です。
僕程度の山登りやチャリ旅しかしない人間が、田中幹也さんの旅の全貌を想像することは難しい。いくらその話を聞いても、リアリティーを持って、その困難を知ることは難しい。
アマチュアでギターを触るレベルの人間が、ジョンスコフィールドがどういう感覚で音楽をしているのか、想像するのは難しい。
ただ、幹也さんの旅の話を聞いたり、ジョンスコフィールドの音楽や話を聴いて、いや、拝聴して、楽しむことはできるし、疑似体験することもできるだろう。しかしそれは、ある種の高みに立った人間の理解を、分かち合っているだけであるということは理解するべきだろう。
無論、それらに触れる人、にもある種の鍛錬があり、ある種のレベルの高低があると思う。
例えば、音楽を聴く耳の肥えたリスナーもいる。より深い理解を求めているリスナーにとっては、音楽を聴くこと、も一つの求道だろう。
黒森さんの料理を食べても、味のわからない人間には、ああ、美味しいね、で終わるかもしれない。でも、ある種の味覚を鍛錬したグルメな人ならば、より深い理解を楽しめるだろう。
またそういう人たちが、玄人に意見することもあるかもしれない。が、それが個人の感想レベルの価値をもたらすことは、玄人の側からは無い。また、本当に聴く耳があるリスナーが、そんな感想を玄人に述べることは、まず無い。
僕は、田中幹也さんの旅の全貌を知ることはできないが、彼がそれに駆り立てられるモチベーションは理解できるつもりだ。
田中幹也さんと自分を比べるのもおこがましいが、僕もそれなりに自分の道を歩んできた矜持はある。そしてそれにより、ある種の高みを目指している人間の、気持ちは理解出来るつもりだ。
という前置きの上に話します。
ドラッグは音楽に影響を与えるか?
タバコのように、全く利益のないドラッグもこの世にはあるが、多くのドラッグはリーガルイリーガル問わず、それなりに精神に対して価値をもたらす。
美味しいワインと食事は、心を豊かにするだろう。そしてワインによって得た豊かな心は、その人の創作に影響をもたらすだろう。
問題なのは、ワインがなければ、豊かな心をもたらすことが出来ない、ということだ。それには問題がある。
つまり、ドラッグは人の心を豊かにもするが、それなしでは豊かになれないという、依存ももたらす可能性がある。
ドラッグは音楽に影響をもたらす。がそれはドラッグのみに非ず、あらゆる人としての営みや経験は、その人となりに影響をもたらす。
それはアーティストに限った話ではない。
あらゆる喜び、悲しみ、痛み、快感、飢え、乾き、光も闇も物事の全てから人は影響を受ける。
そしてそのセンサーの極めて高い人間が、そしてそこから得た何かを、自分の力で自分のものとして再構築しうる人間のみが、アーティストなり、料理人なり、冒険への道を歩む。そしてそれらは自分自身の道でしかないのだ。
優れたアーティストになる人の資質の一つとして、好奇心が旺盛である、ということがいえる。
あらゆる人としての営みに対して、積極的なインプットを求めていく姿勢が大事であることは言うまでもない。
法律上の問題があるので、日本でのそれは僕は勧めないが、合法な外国において、マリファナをやるチャンスがあれば、やった方がいい。
あらゆることは、同義に悖ることでなければ、やってみる方がいい。
もちろん、酒が体に合わない人がいるのと同様に、マリファナが体に合わない人もいるだろうし、ちっとも楽しめない人もいるかもしれない。でも、やってみないとそのことはわからない。
勿論、ドラッグのことだけではない。僕はお誘いは可能な限り断らない。どんなお誘いであっても。
飲み会のお誘いであろうが、ダンスの公演であろうが、海外旅行だろうが、なんでもいい。お誘いは断らない。
勿論、美女からのデートのお誘いは断る理由もない。
同義に悖るお誘い、泥棒しようよ、というようなお誘いでない限りは、自分の環境的に実施出来る事に関して、自分の労力や金銭を吝嗇しないことを僕は自分の旨としている。
そういう経験の蓄積が、自分の感性を磨いていると確信しているからだ。
さて、ドラッグは音楽に影響を与えるが、ドラッグがないと音楽が出来ないわけではない。
僕の現在の音楽に対して、ドラッグが与えた影響など、0.000001%ほどしかないだろう。あらゆる経験が僕の感性を構成しているが、その中でも微細な影響だろう。
俺の創作にはドラッグが必要なんだ、だから違法だろうがやるんだ、といっているようなアーティストはダサい、と書いている文章を読んだ。無論書いた人はアーティストではない。アーティストの本質を理解している発言ではない。
そんなアーティストはこの世にはいない、と僕は思う。
もしそういう人がいたとしたら、それはアーティストではない。アーティストのポーザーだ。
チャーリーパーカーがヘロインをやっていたのは、クリエイティビティーとはまた別のところのモチベーションに基づくものだろう。
おそらくは、感受性の豊かな人間にとって、この世の中を生き抜くことは厳しい。あらゆる事柄が自らを傷つけていく。
ミュージシャンは表現者の中で最も感性が暗い人間がなるものだと僕は思っている。
暗く、闇へ逃避するための手段として、ヘロインを用いたのだと思う。
長生きする、出来る人間は、ある意味では鈍い人間なんだ。優れたクライマーは皆20代で死ぬんだ、というような話を聞いたことがある。
ただ、僕は世界最高峰の芸術家である、チャーリーパーカーの、本当の意味でのクリエイティビティーと、そのモチベーションを、残念ながら知る高みにいるわけではない。
もしかしたら、自分の及びもつかない感性の人間にとって、ドラッグを、しかもヘロインというダウナーのドラッグなしには創作できない理由があるのかもしれない。
故に、ドラッグ無しで演奏出来ないアーティストなんかアーティストではない、などという論を僕は軽々しく言えない。
ただ、一つだけ言えることは、本気で何かを追い求める人は、その行為が反社会性を孕むものであったとしても、躊躇なく、我儘に、我が道を貫くだろう。
下々の人々は、その人の行動を、反社会性を求めてのことである、と判断するかもしれない。
しかし、本当の求道者には、その行為が反社会性があるかどうかということに対する、相対的な評価軸など存在しない。
ただ、追い求めたい、何か、があるのみである。
人は、自分以上の人間を理解することは、困難である。
ひとつ方法があるとするならば、自分にはまだ理解できない感覚があるのだ、ということを知ること、から、その理解が始まる。
つまらない論評をしている暇があったら、自らの無知を見つめ直す時間を持った方がいい。
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  1. 2019/03/18(月) 12:54:38|
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