中村の考え

芸術における緊張と緩和について~ビバップとは

全ての摂理は緊張と緩和の連続でもある。
晴れる日もあれば雨の日もある。凪の日もあれば嵐もある。
もっと長いスパンで考えると、四季というのも一つの緊張と緩和のサイクルである。
生物の一生もそうかもしれない。
さらに長く考えると、氷河時代から考えると暖かくなってきているのも緊張と緩和。
さらにいうと、ビッグバンという最強の緊張状態からの緩和が現在も続いているといえる。
小さい方では、林檎が引力によって引っ張られるのも緊張と緩和。
上げていけばきりがないが、素粒子等の世界でも原子の寿命だとかなんだとかそういうのを聞いたことがある。
物事全ては緊張と緩和、という観点から観察することが出来る。

音楽もそうである。

音楽に限らず、全ての芸術は緊張と緩和の連続で出来ていて、それの巧みなコントロールで美を表現するのである。
全ての芸術がである。
言い方を変えれば、緊張と緩和の連鎖から抜け出すことの出来た芸術は無い。
抜け出そうと試みた人はいるだろうけど、全ての試みはうまく行かなかった。
勿論僕は全ての芸術を知っている訳ではないので、推測の域を出ないが、音楽というものが摂理と無関係であり得ないことを考えると、全ての芸術は緊張と緩和のサイクルから抜け出せないと思う。

しかし音楽という美を構成する上で多くのの人たちの間で、もっとも大事なことであると思える緊張と緩和は、人間の感情であると思う。
喜怒哀楽、もしくはそれで説明出来ない感情。
泣きながら笑う、等、深層では感情はかなり入り乱れているはず。
だから音楽は言葉では表現出来ないのだ。並大抵の言語力では。

ともかくとして、それらに裏打ちされていない音楽ははっきりいって全く面白くない。ただの音符の垂れ流しだ。

これが残念なことに、多くのまあまあのレベルのジャズミュージシャンや、まあまあのクラシックの演奏家には多く見られる。

あなたが緊張と緩和に裏付けされた演奏を出来ている演奏家であるかどうかを計る簡単な方法がある。

既成のフレーズを使わず、例えばピアノなら88個の叩くところのある打楽器として、サックス等なら自分の声の拡声器だと思って、ドラムはいうに及ばず、歌の人ならば歌詞にたよらず、即興演奏をしてみてほしい。
内容の洗練の度合いはともかくとして、それが出来るかどうか、で判断出来る。
上級者なら、それでアンサンブルしてみてほしい。
音楽を開始出来て終わることが出来ればそれだけであなたは上級者です。

ほとんどのまあまあのジャズミュージシャンや、まあまあのクラシックの演奏家には難しいことだと思います。

ジャズという音楽スタイル、クラシックには譜面がある。それをなぞっているだけでは緊張と緩和は表現出来ないしコントロールも出来ないんです。

本当に三流のピアニストの演奏だが、某ジャズクラブで聞いたときに、流暢にフレーズを並べ立てて入るが全く感動とは無縁で、緊張状態も無いならば当たり前のことだが緩和する先も無い。本当に退屈な演奏だった。

多かれ少なかれまあまあのジャズのミュージシャンはこういう人が多い。

スタイルで音楽をとらえているからだ。

ビバップを言語だと言った人がいたが、それは間違いである。

ビバップとは「めっちゃいけてるやん!!」という、精神的用語であって音楽スタイルやスタンスのことではない。

少なくともスタイルとしてそれを踏襲する人は、アーティストではない。場合が多い。
まれに、そうではない人もいるが、スタイルの踏襲によって芸術を極めるのは、きわめて遠回りで困難な道なのだ。

クラシックの人はいうに及ばず、譜面しか聞こえてこないのである。

クラシックこそ、譜面を弾いても即興的に、フレッシュな息吹が聞こえてくるかこないかが、はっきりいって一流と二流の差です(知名度とは関係なく)。

ジャズミュージシャンもクラシックのミュージシャンも、スタイルや譜面を外すと極端に弱くなる。
これは、緊張と緩和の裏付けのない演奏をしているからだ。
他ジャンルの人とコラボレーション出来ないのだ。
逆にいうと、他ジャンルの人とのコラボレーション出来ているミュージシャンは、緊張と緩和に裏付けされた音楽を出来ている人だと、リスナーの側は判断出来ますね。


フレーズに頼らずに表現出来なければ、フレーズを弾いても伝わらない。
シンガーは、歌詞に頼らずに表現出来なければ、伝わらないのです。
ちなみにサラヴォーンは、歌詞の曲を、歌詞を歌わずに表現しようとすることにトライしていました。

緊張と緩和に裏打ちされた演奏をしよう。

手始めに自分の楽器で即興演奏してみよう。

結構簡単である。むしろへたくその方が出来るはずである。
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  1. 2006/07/15(土) 02:25:40|
  2. A~D
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:6
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コメント

AMさん
はじめまして。

難しいです。正直そういう方向に考えを至らせる事が出来ていません。。
というのも、僕はまだ自分の美意識に忠実たる事だけで精一杯だからです。
まだ、他人の人生を慮るレベルではありませんし、社会の事となると手の届く範囲ではありません。


ただ、時々僕の音楽に救われたという話を聞く事があります。
しかし、僕は自ら誰かを救おう等と、大それた事を考えて音楽をやっている訳ではありません。
しかし、結果としてそういってもらえることはとてもうれしい事です。
が、それを目的と出来る程僕の企みは壮大ではないです。今のところ。
  1. 2006/07/26(水) 00:47:21 |
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  3. #-
  4. [ 編集]

はじめまして

中村さん、はじめまして。

中村さんの考えに共感しまして感想を書きます。

中村さんの考え全体をひっくるめて納得するのは、「音楽家」という職業的概念の前に、オーガニックな「人間」の生理を踏まえていらっしゃるからですね。

何事も内的体験が基本中の基本です。自分に音を取り込むと中で何かが起こる。それを外に出す時、技術や知識といった理屈を覚えます。

本当は正しく素直に内側に取り込む作業でも訓練が必要だと思いますが(むしろ、この「聴く」作業が一番難しかったりして)、中村さんのおっしゃる通り、技巧・理論・スタイル(ファッション迄含む)といった概念が先に立っていると思う事が多々あります。大切と云えば大切な理屈だけど、その辺は後で付いて来るに任せた方が良い音楽になると思いますが。

音楽、又はあらゆる表現が芸術的な価値を持つには、人間の生理本質を解き明かす努力が伴っていないと駄目ですね(これは徐々に自然、宇宙への探求へと進んだりして)。

僕はそう考えて音楽を楽しんできました。中村さんの考え方、題材等がとても興味深く共感しました。音楽が進化するに大切な事ばかりです。

突然エライ真剣な話になりましたが、ところで、

僕は中村さんの様な優れた音楽家が今の日本の社会に何をどうアピール(貢献)するかによって、音楽家全体の将来が大きく変わってくると思います。今はあらゆる意味で過渡期では無いかと思う節があるんですが(思い込みだったりして)。理想的には音楽家が純粋に力の有る音楽をやってそれに共鳴して少しでも世の中がよくなる、と云う構図ですが、なかなか。中村さんは何か思う事はありますか。


突然の書き込みに加え質問で、すみません。
また次の記事を楽しみにしています。では。
  1. 2006/07/18(火) 19:02:17 |
  2. URL |
  3. AM #-
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大事なことは、演劇には演劇の、音楽には音楽の、表現の特性をメリットとして考えることが出来るかどうか?です。
デメリットとして考えてしまいがちかもしれませんね、人間というものは。

ソロ3は、一つの点を見ても何の絵かわからないけど、全体を見たら絵に見える印象派の絵画のような作品であると自分では思ってます。
そうでない曲もありますが。
今現在の僕の演奏スタイルは、たとえは少し悪いですが、一音が「書」のような重みを持った演奏に変わりつつあると思います。
一音の重みは増したが、音数は減った。抽象性を求めているというよりは、具体性を求めた演奏に変化しているように思います。
自らのこの動きは、しかしまた抽象性を帯びた演奏に戻ったときに必ず3rdの録音のころとはまた変化したものになっているだろうなと予感しています。
  1. 2006/07/17(月) 01:45:41 |
  2. URL |
  3. mako. #-
  4. [ 編集]

他の芸術に比べ、遥かに抽象性を帯びる音楽に対して、演劇は(まったく対極的に)圧倒的な具象性を帯びるんですよね。


あいまいな世界を具体的な言葉のみで表現しようとすると、無理が生じるのは必然となるが、音楽はそのものが抽象的なのでありのままの世界を描ける。
対して演劇はそのまま再現しようとする。

演劇は世界・空間そのものを再現できる唯一の芸術だ、というような論調で最終のゼミ発表をつくったんですよ。

唯一こういう演劇を追求し、完成させた人が平田オリザという人です。青年団という劇団を率いています。

この人の演劇を間近でみたときに、鳥肌が立ちました。
僕はそこまでは当然達しませんでしたが(-_-;)
もし機会があったら見てみてほしいですね。(最近ぱっとしたうわさをききませんが・・・)

ちなみに今、SoloPiano#3聞き込み中です。
近いうちに感想をBlogにアップします(ドキドキ

  1. 2006/07/15(土) 22:02:03 |
  2. URL |
  3. AKIRA #-
  4. [ 編集]

初コメントおめでとう。
理論的であることイコール言語化する、ということだといっても過言ではないと思うのだけど、僕の場合は、言語化するというプロセスは自分にとってとても大事なものです。
自らの感性によって紡がれたものを整理する必要性は、多かれ少なかれあるとは思うのですが、人によってその重要性とプロセスは違いますね。
ですから、僕にとって中村の考えを記すことは、自分のため、が最も大きい理由なんです。

ともかく、芸術の中で音楽が特権的かどうかは分かりませんが、他の芸術と厳然と区別する点があるのです。
それは、他の芸術に比べ、遥かに抽象性を帯びることです。
音楽で具体的な事柄を表現することは無理ですから。
表題を付けるか、歌詞を付けるかしなければ。
そこが特殊です。
ですが考え方を変えると、たった1音で全てのものを内包した音を出すことも可能です。
ですから、音楽とは実態を表現するものではなく、オーラや印象から実態をイメージさせる方が手っ取り早いと僕は考えています。

アキラ君、もし君が

>台本に裏打ちされた世界をいかに「即興として再現」する

ことが出来たとしたら、完全なるプロフェッショナルといってもいいでしょうね。
  1. 2006/07/15(土) 13:14:25 |
  2. URL |
  3. mako. #-
  4. [ 編集]

初コメントですかね・・・?恐縮です。

めちゃめちゃこれ面白い。
僕はどうも頭でっかちで、理論が先にたってしまいがちなのですが、

>だから音楽は言葉では表現出来ないのだ。並大抵の言語力では。

大学にいたころに、哲学・思想の勉強をしていたんですが、どうしても芸術の問題にあたります。

その際、音楽は特権的な芸術だという話がありました。
深くは記憶していないので、これ以上の言及は避けます(-_-;)

僕自身演劇やっていましたが、演劇の場合、台本に裏打ちされた世界をいかに「即興として再現」するか、というところに至難の業だと感じました。

うーん。おもしろいなぁ。
  1. 2006/07/15(土) 10:53:27 |
  2. URL |
  3. AKIRA #-
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