中村の考え

知るということ、見るということ

知る、ということ、そしてものを見る、ということ


脳の中に楽譜を用意して演奏に望む音楽家がいる。
まずそれを取っ払うところから始めるほうがいい。
楽譜に書かれているものは音楽そのものではない。
音楽に関する、ほんの一部の情報が書かれているに過ぎない。
クラシックの楽譜ですら、そこに書かれていることは全てではない。
ぼくは共演者、特にベーシストに曲目を伝えずに演奏を始めることがよくある。
よく知っている曲であるはずなのに演奏出来ないベーシストがたまにいる。
その人達は、曲目を伝えなければ、脳の中の譜面集から譜面を取り出せないのだ。
そういう人達に、この曲知ってるか?というと、覚えてません、と答えが返ってくることがある。
僕は、知ってるのか知らないのか、を訊ねているのだ。

曲を知る、ということはどういうことなのか???
曲のコード進行を覚えることなのか???メロディーを覚えることなのか???
歌詞を覚えることなのか??
勿論それら全て、曲を知る、ことの一つだ。
だが、本当にそれで知ったことになるのか??
コード進行など、楽曲の本質ではなく、表面の一部分であり、場合によっては音楽を奏でる上において何の意味も持たない場合も数多い。
少なくとも、僕のトリオに、コードを覚えているだけでは参加することは出来ない。
キースジャレットのトリオにおいては、メンバーみんな「知っている」曲を演奏しているのだが、ゲーリーピーコックとキースジャレットは「しばしば」全く違うコードを弾いている。
知るということと、覚える、ということは少し違うのだ。
たとえ話を一つ。


CHAKAと話していて、英語の歌詞によく出て来る、なんとかという花(名前は忘れた)が、アメリカ人にとって特別な意味を持つ、例えば日本人にとってのさくらのような花、であるのだ、といっていた。それを知ってその花の歌詞を歌うのと、知らないで、数ある花の一つとして歌うのか、では少し、いや場合によっては180度意味が違って来ることもあるだろう。
言葉は音に比べ、遥かに具体的だから、このたとえは解りやすかったはずだが、音の中においても、このようなことは一杯ある。
覚えたコード進行を頼りに、音を重ねていくなら、大きな間違いは生じない。が、その音と音の結びつきは希薄なものになる。
何故ならば、音楽と音楽の間に、覚えたコード進行の譜面、が間に一つ挟まっているからだ。
そうではなく、即興の息吹きの中で、音と音を重ねて一つのハーモニー、調和を生み出す。
それはコード進行を覚えているからできるというものではないのだ。



僕は、自転車でほぼ日本を一周している。
旅をすると、勿論、見聞が広がる。が、同時に、知るということの意味をよく考える切っ掛けとなった。物を知る、という事の意味を問うた。
例えば、中津江を知る、ということはどういうことなのか???氷見を知るということはどういうことなのか???埼玉を、浦和を知るということはどういうことなのだろうということを考えた。
大阪は知ってるのか??
住めば知れるのか?住まなければ知れないのか??旅をすればいいのか??旅行で訪れてもいいのか??
それら全て、知ることの一つではある。
だが、本当の意味で「知った」ことになるのだろうか???
無論、僕も答えは知らない。ただ、単なる思考の先にその答えはない、と予感している。
知るということは、もっと包括的に物事を捉えることなのだ。


見る力、聞く力

知る為の第一歩は、見ることだ。
美大に入学するのにはデッサンが必須だが、デッサンの基本は見ること。
林檎を見続けることにより、林檎の裏が見えるようになるそうだ。
無論それは比喩だが、物をよく見ることは実はとても難しい。
若い音楽家の多くは音楽を聞く力に乏しい。
美術教育の一環では、よく見ること、は、いろはの、い、だ。が、音楽教育の中に、よく聞く、という教育はない。
聴音等は、実は音楽を聞き取る力を問われる訳ではない。ソルフェージュ能力とは、音を聞き取る力ではなく、脳でどれだけドレミがなるか、という力なのだ。
それに、ドレミを聞き取ることだけが、音楽を聞き取る力という訳ではない。
味覚で例えてみよう。
コックと一般の人が、同じ料理を食べたとしよう。全く同じ物を食べても、感じ取れる情報量は全然違う。
出汁の種類、素材の鮮度、場合によっては産地まで見えて来る人もいるだろう。
それと同じ。僕が音楽を聴いて得れる情報量は、やはり駆け出しのミュージシャンに比べると雲泥の差なのだ。
勿論、一朝一夕で聞く力を養うことは無理だ。
「聞けてない」という意識を常に持って、もっともっと聞こうとしてみる事をおすすめする。
ブラシの一擦りの速度や深さ、スネアドラムの響き、スティックが打面に当たる角度、ピアノのダンパーが外れる音、ハーフペダリング、ベースのピチカートの後の響き、ボーカルの地声からファルセットにミックスされていく感じやその配分の妙、子音と母音のバランス、ブレスの位置と深さ、ギターのピチカートとハンマリングプリングの配分、そして、リズム。八分音符のレガート感やバウンスしている案配、音符の粘り気や、四分音符の鼓動、スイングの強弱、リアルでの音量感、言い出せばきりがない。
そして、音楽は細部だけではない。トータルのバランスも聞くのだ。
モチーフの扱われ方、ピークやボトムの位置、楽曲の構成やバランス。
そうやって、見る力、を少しずつ身につけていく。
それは無論感受する力に直結する。



物の見方

自転車の旅から得たことの最も大きいことは、「物の見方」だ。
物を見る上において、予断を持ってすることは最も慎まなければならないことだ。
感動を得ようとしたり、良い物を見ようとすることは、予断を持っていることなのだ。
一切をニュートラルに捉える。
曇りなき眼で見て、自分自身の感覚のみで捉える。
そして、一切の属性に惑わされること無く、自分の力で判断していく。
他人の「目」を通して物事を見て判断することは、実はとても楽なことなのだ。
例えば、権威のある人が、いい、といったものを、いいと受け入れることは大変に楽なのだ。
そして、そうやって楽に判断を繰り返していくと、物の見方にどんどん悪い癖がついて来るし、見る力も伸びない。
面白いたとえ話がある。
あるアーティストBさんと話していて、ある僕の友人の音楽家Cさんの話になり、その人はある著名な音楽家Dさんのプロデュースのアルバムを作ったらしい。
Bさんは、DさんにプロデュースしてもらったCさんって、すごいね、といった。
Bさんは、ずっとそうやって、物事を見ることに対して楽をして来たのだろう。
勿論、アーティストといえども人間だ。
権威のあるものに対して流されそうになったり、判断を怠けそうになることは、多々ある。
僕ですらある。
が、そこでぐっと踏みとどまれるかどうか、そこで頑張って判断をし続けていけるかどうか、なのだ。
そういう習慣をつけておかないと、いざという時に、きっちり見ることが出来ない。
無論、権威に対して反動的である必要もない。
そうやって、眼力は養っていくものだ。
眼力は、直感力に直結する。
そして、直感力は脳みそ0%に繋がる。

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  1. 2009/09/01(火) 15:16:02|
  2. D
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  1. 2009/10/15(木) 02:22:00 |
  2. |
  3. #
  4. [ 編集]

感じる

私は本当の意味で知ることはつまり、どれだけ心で感じているかだと。感じ方が深いほど、それがその物事をどれだけ知っているかに繋がると思います。人から何かを言われたり、教わって、「あっ、そうか」とすぐに分かった気でいる場合は、それほど深く理解していなくて、本当に分かるのはもっと先に自分から自然に心で感じたときではないかと思います。
すべて脳みそ0%に通じますね。それが自然ということであると感じております。
中村の考えは私がすでに経験してきた事と、重なる部分が多く、共感が持てます。

最後のお話は、小曽根さんのことでしょうか?直感的に感じましたので、違っていたらごめんなさい。
彼が素晴らしいアーティストだと感じますが、彼にひれ伏しているミュージシャンがあまりに多いのにはがっかりします。
もちろん彼を尊敬しているミュージシャンが多いのは事実でそれ自体素晴らしいことですが、もはや彼との対等な関係は非常に困難のように思われます。
判断力が鈍ってしまい、何でも万歳!っていうのは北朝鮮だけで十分ですからね。
他人の判断が、いつしか自分の価値観にまで影響を与える。。。とても恐ろしいことです。



  1. 2009/09/12(土) 18:18:27 |
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