中村の考え

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西洋と東洋の概念の違い

数年前、片岡球子展を見て衝撃を受け、絵が描きたいと思った。
ある画家がライブに遊びにきてくれた。その想いを伝えたら、持っている色鉛筆と画用紙を貸してくれて、描きなよ、といってくれた。
いざ描こうとしたのだが、全く描けない。そこにあるコップを描こうとしたが、どう描いていいのか解らなかった。
僕はコップの形を線で描こうとしたのだが、コップの表面と空間の間にある区別は、実は線ではない。
そのことに気付いて、どう描いていいのか解らなくなったのだ。

西洋画は面的で、日本画は線的である。
そのことをずっと不思議に思っていた。
色んな美術家にそのことを質問したのだが、納得出来る答えを返してくれる人はいなかった。
ある日、宮崎の陣軍陽さんという書家の大家の人の家に遊びにいった時、陣さんの作品をいくつか見せてもらっていた。中に陣さんが描いた絵、水墨画があった。その水墨画は線により描かれていた。
長年の謎を問うてみた。
陣さんには過去にも様々な問いを投げかけて、ヒントとなる言葉をいくつか頂いたことがある。
例えば、多くの画家は晩年になるとどんどんと大胆さがましてくる。それは何故なんだろうか?という問いに対する答えも腑に落ちた。又それは別の機会に。

陣さんは、それは西洋人と日本人のものの味方の違いに由来するのだ、と仰った。
西洋人は、物を中身から見ようとするのだが、日本人は、物の形からみようとする、物の見方の違いです。と仰った。
その言葉から、自分なりに様々な事柄を思考してみた。

以下に未熟ながら、自分の考えを述べたいと思う。

フランス料理とイタリア料理の違い。
フランス料理は言わずと知れた世界一の技法を誇る料理。対してイタリア料理は素材の味を生かしたお気楽な料理、と、一般的にはいわれている。イタリア料理の本にも伊仏の料理の違いについて、そう書かれてある。
例えば、フランス料理の華、コンソメスープは、コンプリートスープという意味だそうだ。完成されたスープ、なのだ。
各種のブイヨンを使い、牛のすね肉をミンチにした物を数日間煮込んでいき、卵白で灰汁を凝着させ、徹底的に透明に作り上げられたそれは、一流の料理人の、完全なるコントロール下に置かれた、完璧な味。
イタリア料理は、パスタを茹でている鍋の中に、煮えるのが遅そうな野菜を順番に入れていき、仕上がりはまあ大体こんな感じ、ジャガイモはちょっと固くてもまあいいじゃないか、ゆであがったパスタと野菜をボールでたっぷりのオリーブ油で和え、皿に盛りつけ、パルメザンをすりおろす。たったこれだけの料理。
僕はイタリア料理は適当な料理なのだと思っていたが、それは実は違うということを知った。
徳島のスガッチーというイタリア料理を食べた時、あまりの旨さに衝撃を受けた。
僕もアマチュアではあるが、まあまあ本格的に料理をするので、そのトマトソースのパスタをどうやって作っているのか解る。
トマトとタマネギと塩とこしょう、それだけしか使っていないはずのそのトマトソースの旨さ。
素材の味を引き出すのがイタリア料理だといわれているが、そうではないのだ。素材の味を限定しないのがイタリア料理なのだ。
どこまで美味しいのか解らない料理、それがイタリア料理なのだ。
フランス料理は、コンプリートした料理、いわば、面を完璧に隙なく埋め込む作る料理であることに対し、イタリア料理は美味しさを解放する料理なのだ。
完璧なものを創るフランス料理と、作られたものを完璧とするイタリア料理の違いと考えている。

ジャズミュージックは即興演奏だといわれている。が、僕には多くの西洋のジャズミュージックが即興演奏に聞こえない。
というより僕の考える即興と、多くの西洋のジャズミュージシャンのやる即興は、違う。
西洋的な即興の概念と、東洋的な即興の概念が違うのだ。
西洋のそれは、完成した絵を、一寸の間違いもなく一筆書きで描き切る、というような即興。対し、日本の即興は、書く物は決まっているが、垂れた墨の模様やかすれ等、計算されていないそれも含めて完成とする、といった、「書」的即興。
コンプリートしたもの、と、コンプリートするもの、の違い。


西洋的な概念は、完成していてそこに入り込む余地のないような概念、面を塗り込んで、そしてそこに他の色は入り込めない。
東洋的な概念は、すかすかな概念、どうとでもなるような概念、水墨画に色はないが、どうぞご自由に色を想像してください、といった概念。


アメリカの中東政策について。
先日見た映画の中で、アメリカ人の男が、京都のお寺で読経中のお坊さんに話かけるシーンがあった。このシーンに象徴されると思う。
日本人がアメリカの教会で、聖書を読んでいる牧師に対して話かけるだろうか?おそらく、多くの日本人は、聖書を読み終わるまで待ってから話かけると思う。
おそらく、アメリカをはじめ、西洋の多くの国の感覚として、中東の人達がイスラム教に対する想いを、頭では解っているだろうが、皮膚感覚として理解出来ていないように思う。
何故自分たちの正義を信じて疑わないのか?価値観がコンプリーとしているからだ。
他の価値観が入り込む余地がないのだ。
多くの日本人は、イスラム教の教義は全く知らなくても、どうやらそれがとても彼らにとって大事であり、侵してはならないものなんだろうな、ということを皮膚感覚で捉えることが出来るだろう。
皮膚感覚としてそれがない西洋人は、頭で解っていても行動することが出来ない。
逆に日本人はすかすかなので、何でも受け入れてしまう。それが主体性の無さとして国際社会で非難を浴びることもある。
しかしその資質のおかげで、アメリカは日本に対しての占領政策を大成功させたのだ。日本人は、受け入れてしまえるからだ。
お寺に東照宮の飾り立てがある、そういう資質なのだ。



日本人のジャズが、何かちょっと変な理由。
多くの日本人ジャズミュージシャンは、面的にリズムやトーンを捉えることが出来ていない。
ジャズのリズムは、一拍と一拍の間の空間を有機的なもので埋めなければ成立しないリズムだとぼくは考えている。つまり、リズムという「面」を「隙間なく塗り込んでいる」「西洋画」のようなリズム。対し、日本の音楽は形はあるけれども、中身はすかすかな点的なリズム。
ジャズという「西洋画」を演奏する為には、油絵の具で面を塗り込む方法を身につけなければならない。
ただ、それを感覚として身につけることが出来たら、日本の「書」的な即興感というものは大変魅力的に生かすことが出来ると思う。
例えば、藤田嗣治の西洋画には線が多く用いられているが、面的に塗り込まれてもいる。
逆にゴッホ等は東洋的な概念を持ち込んでいる。事実ゴッホも線で絵を描くことが多い。
ジャズミュージシャンもそう思う。例えば、ウェインショーターや、キースジャレット等、トップのプレイヤーの即興には、東洋的な「書」的な概念も見て取ることが出来る。
要するに、一流のアーティストのなかには、コンプリートした感覚も、コンプリートさせる感覚も、両方あるということだ。


以上徒然と書いてみた。
この考えは、まだコンプリートしていません。
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  1. 2011/05/03(火) 16:54:41|
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  1. 2016/06/25(土) 13:02:22 |
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とても興味深く読みました

「タイム感」と言うことについて知りたくて検索していて こちらに出会いました。
とても面白く思い、いくつかのエントリーを読ませて頂きました。
中でも、このエントリーは 感じる所が沢山有り、分かりやすかったです。
日本人である私が英語で歌を歌っていることについて、ずっと考えていたからかなと思います。


このブログテーマが 音楽だけじゃなく 色々なジャンルのことを色々な視点から書かれているのが とても素敵ですね。
全てのことは絡まっていて 関係があって、トータルに私であると思っています。
その私が仕事をしたり歌ったり、色々な活動をしている。
切り口がどこであっても 私は自分のことを考えているように思っています。

なので、中村さんもきっと 同じように色々な切り口から自分をとらえ、音楽を追究していらっしゃるように感じました。
  1. 2016/05/07(土) 21:10:34 |
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  3. 光代 #kpjYxc8I
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